ウクライナ侵攻を続けるプーチンの目的が、その先のことは措くとして、まずはキエフへの傀儡政権樹立にあるとは専門家の多くが述べるところだ。全面侵攻を始めた2月24日の演説で彼は「ジェノサイド」をやめさせるためのウクライナ「非ナチ化」をその大義名分の一つにした。
ならば、もしプーチンの目的が成ったとして、その暁にウクライナで起こると予想される事態は、建てた傀儡政権が、台湾で75年前の2月28日に起きた「二二八事件」のような規模の犠牲を生じさせる処置を執ることになるはずだろう。さもなければ、この全面侵攻は合理化されない。
台湾の蔡英文総統は2月28日に基隆で行われた二二八平和記念日の式典で、ウクライナの人たちが自分たちの国家、民主・自由のために団結し、侵略に抵抗していることを、全世界の人たちが見ていると指摘した上で、こう挨拶した。
民主は唯一の選択肢であり、団結は唯一の方法だ。・・国家の主権、民主・自由を守ろうとする彼らの決意は、自由・民主を追求する全世界の人たちの心を動かした。そして、それによって国際社会はさらに一歩進んでウクライナを支持する力を強めた。
本稿では、『台湾 法的地位の史的研究』戴天昭著(行人社)の記述などを参考に、「二二八事件」(以下、「二二八」)のあらましを再確認し、繰り返されてはならない悲劇について考えてみたい。
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「二二八」の大虐殺は国民党一党独裁(以下、国府)の治下で永らく秘匿されてきた。が、80年代後半からの台湾民主化の流れの中で、多くの関係者の手記や公的資料(『大渓擋案』など)の公開などにより真相解明が漸次進み、数万人に上る台湾人の犠牲者が出たことが明るみに出るに至った。
植民地支配者として権力をふるったが、法と秩序を遵守して積極的に台湾の開発と経営を進めた日本に比べて、国府の腐敗と無能ぶりは目に余るものがあった。特に中国伝統の「官衛家産化」思想による縁故者雇用の芋蔓式人事は、行政の非効率と政府予算の激増を生じさせた。
日本統治期に18千人余だった行政長官公署の要員は43千人に激増、別に数万人の日本人留用も必要とした。しかも登用された台湾人(本省人)官吏は、一級職ゼロ、二・三級職各9%台、四級職18.6%、五級職33.4%に過ぎなかった(当時の人口は本省人約6百万、外省人約1百万人とされる)。
要職を独占した国府の高級官吏や軍人による経済破壊と搾取行為も激烈だった。総督府専売局から接収した樟脳42万トンは4百トンに急減し、350万箱あったマッチでも直ぐに「マッチ欠乏」騒ぎが起こる。米や砂糖は日本向けから大陸向けになり、国府の投機で47年1月の米価は4百倍に高騰した。
伊藤潔の『台湾』(中公新書)によれば、47年2月28日までに長官公署が接収した日本の台湾残置資産(敵産)は、公的機関29.4億円(593件)、民営企業71.6億円(1,295件)、民間私有財産8.9億円(4万9千件)の合計109億9千万円に上った。これの接収過程で国府官僚の私腹も肥やされた。
また天文学的数字の紙幣が印刷され、45年9月の19,3億元から47年末には171.3億元に達した。結果、経済破壊が加速、30万以上の失業者が巷に溢れた。こうした国府の圧政は台湾人の反感を買い、また自覚を促し、巷には次のような放言が流布された。
我々は犬(日本)を追い出したが豚(中国)に這入られた。犬は家の番をするが豚はただ食い荒らすばかり。否、犬の代わりに来たのは虎だ。犬は忠実に我々を守るが、虎は食い荒らすばかりでなく我々の命まで奪ってしまう。日本人は搾取と開発を同時に遂行したから五十年居られたが、中国人は搾取と破壊を同時に強行しているから五年も居られようか。否、居られまい。
台湾人は自衛のための行政改革、軍規粛正、汚職官吏更迭などの改善を求めたが、行政長官公署は悉く拒否し、むしろ監視取締りを強化した。国府は終戦直後から、全島至る所に「特務営」、「第二処」、「調査室」、「省党務」(今の共産中国でよく聞く名称)などの秘密警察(特務)網を張り巡らせていた。
陳儀長官はこれら「特務」を駆使し、46年3月から大規模な「漢奸狩り」に着手、捕らえられた政府批判者や反対者はありもしない罪を着せられ、国府特有の「集中営」(それは台北の「労働訓導営」や台東の「遊民集芸所」などで、北京による新疆ウイグルを髣髴する手法だ)に収容された。
史明の『台湾人四百年史』(新泉社)は「特務」について、ナチスドイツの「ゲシュタポ」やソ連の「KGB」と並べて論じる。即ち、中国伝統の殺し屋ギルド「青幇」の系譜である戴笠の「藍衣社」や陳果夫・立夫の「CC団」がそれで、後者は国民党中央党部調査統計局(中統)として、探索、監視、人さらい、暗殺などを業とする悪虐なテロリストとして君臨していた。
当時の台湾人の意識を調査した米OSSの記録によれば、台湾人は中国人支配を望まず、米国の信託統治を望むというものだった。国府の林文奎空軍司令官も同様の民情観察に基づき、陳儀の専制腐敗ぶりを蒋介石に密告、このままでは大きな災禍が起こると忠告したが、蒋の答えは林の解任だった。
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こうした中、2月27日夕方、専売局の闇煙草摘発隊と警官が台北大稲埕にトラックで乗り付け、逃げ遅れた台湾人寡婦林某(40歳)を捉まえて煙草と所持金を取り上げた。その際、銃で頭部を殴打され血だらけになった林を庇った抗議者らに摘発隊が発砲、陳という若者が死亡する事件が起きた。
これまでに溜まった鬱憤もあって激怒した台北市民は翌28日午前、かつてない規模で専売局に押しかけ、殺人犯の処罰と今後の安全保障を求めた。デモ隊は中国人局長らが逃げ出した局内に乱入し、酒や煙草を焼き払い、長官公署に向かったが、機関銃の一斉射撃に遭って多数の死傷者を出した。
が、デモ隊は「打倒貪官汚吏」を叫び放送局を占拠、ラジオで事件の経緯を流し、全島民の決起を促す。慌てた陳儀は臨時戒厳令を公布、トラックに分乗した武装兵が至る所で発砲し、さらに多くの犠牲者を出した。市民の怒りは極度に達し、中国人店舗を焼き討ちし、中国人と判れば殴打した。
3月1日、台湾人の反乱は中部にも波及し、台北では「煙草取締流血事件調査委員会」が結成され、戒厳令解除、逮捕市民釈放、発砲禁止、二二八事件処理委員会設置、以上4項目の陳儀による市民への告知、などが長官公署に提出された。翌2日、陳儀は「委員会」に会い、この要求を受諾した。
同日に召集された「処理委員会」決議4項目などの受け入れも含め、陳儀の妥協姿勢のすべては、実は時間稼ぎの擬態に過ぎなかった。裏で陳儀は大陸の蒋に、「共産党と日本残存勢力の煽動によって、無知な群衆が多数暴動に参加し、情勢は緊迫しつつある」と打電し、援軍を求めていた。
蒋はすぐ「歩兵一団、憲兵一営、遅くとも七日上海より台湾へ出発する、心配なかれ」と返信した。この辺りに筆者は、台北への遷都を既に決心していた蒋が、陳儀の告げる台湾の偽情報、とりわけ「共産党と日本残存勢力」の二つの語を、如何に深刻に受け止めたかが現れているように思う。
3月8日午後に憲兵隊二千人、9日には米軍の援助で近代武装した陸軍二十一師団八千人が基隆に上陸し、容赦なく台湾人に襲い掛かった。陳誠参謀総長が10日に蒋への報告した「台湾事件之経過及処理方針」は、陳儀の暴政には一切触れず、事件は専ら共産党の煽動によるものと論断した。
斯くて台湾人に対する無差別虐殺は基隆と高雄に始まり、屏東や花蓮・台東に波及した。伊藤潔は「後に国民党政権がその一ヵ月に28千人が殺害されたと発表」した「台湾人の悲劇」は、「日本統治下で体得した『法治国家』『法の支配』の精神を、国民党政権にも期待し、幻想を抱いたこと」と喝破する。
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戴天昭の記述は、「二二八」が、事情を知らない大陸の蒋介石を陳儀と陳誠が共産主義者を持ち出す捏造情報で動かした結果の悲劇でもあった側面を示唆する。一方、ウクライナがプーチンのいう様な「非ナチ化」を要する状況なのかどうか、日本にいて裏付けの取れない筆者には判断し難い。
が、言えることの一つは、為政者が、「法治国家」であることと「法の支配」とを独善で遺棄すれば、「二二八」のような事態が人々の身の上に起こるということ。二つ目は、その人々が無辜の民かどうか判り難い時代であること。三つ目は、何があろうと核は禁物、ということではなかろうか。