我は我、人は人

私は10年半以上も前に、「今日の森信三(121)」として次のようなツイートをしたことがあります――人間の幸・不幸というものは、大体分量が決まっていて、若い間にどちらか多く味わうと、晩年はその残された後の半分を味わわねばならぬというわけです。理屈に合わぬようにも思われますが、昔から心ある人々が言い伝えてきた事だけに、そこには深い真理があるように思われます。

上記森先生が持たれている基本観は、「万物平衡の理」という宇宙を貫く真理からきていることです。つまり神は全てに対し公平で、長い目で見たら良いこと尽くめや悪いこと尽くめで終わることは決してなく、その意味で万物は平衡が保たれるよう出来ているということです。また「この世に両方良いことはない」という陰陽循環の理とも言って良いかと思います。換言すれば「満つれば欠くる世の習い」ということです。

之は「天の摂理」とでも言うべきもので、東洋の基本的な思想です。一方が出れば、その反作用でバランスして行く此の調和こそ、宇宙における最も霊妙な理かもしれません。要するに、世の全ては最終辻褄が合うよう出来ているということで、実際そういう側面を私自身も否定するものではありません。しかし何を幸せと感じるかは言うまでもなく、主体的なもので人夫々に違っています。

そういう意味で、幸せを得るためには先ず、相対観からの解脱が必要だと思います。あらゆる苦は相対観から出発する、と森先生も言われるように、「AよりBがどう」「BよりCがどう」などと実に下らない相対観の小さな世界で物事を判断し一喜一憂して、自分自身で腹を立てたり様々な嫌な思いを作ったりして行くような愚かな人が沢山います。

「あの人は賢い/私は愚か」「あの人は美しい/私はブス」「あの人は金持ち/私は貧乏」「あの人は幸せ/私は不幸」とか、「あの人は何時も上司に可愛がられて食事に連れて行って貰うのに、どうして私は一度も連れて行って貰えないのか」といった具合に、直ぐに人と比べる人が多いのも確かな気がします。

こういう人は、相対観で物事を判断し相対比較の中でしか自分の幸せを感じ得ないわけですが、元来人と比べることは無意味でしょう。例えば「賢愚一如:けんぐいちにょ」という言葉がありますが、人間を創りたもうた絶対神から見れば、人間の知恵の差など所詮微々たるものであり、人間の差などというものは意味がないのです。

詰まらぬ相対観ほど己を不幸にするものはありません。相対観の中で生きている人の心には、一生安らぎは訪れないでしょう。江戸時代の陽明学者・熊沢蕃山が「我は我、人は人にてよく候」と言っておりますが、幸せとは「我は我、人は人」という考え方から出てくるのではないでしょうか。自分を楽にし自分の品性の向上に繋げるべく、我々は学問修養等により相対観からの解脱を図るのです。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2022年3月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。