ロシアのウクライナ侵略が続く中、フィンランドのサウリ・ニーニスト大統領が4日、ワシントンを訪れ、バイデン大統領と会談した。6日の読売は「ニーニスト氏は会談後、記者団に「安保協力の議題は、NATO加盟問題とはそれほど関係がなかった」とのロイター電を伝えた。
同紙はニーニストが「フィンランドはNATOの加盟基準を満たしている」とも述べたとし、加えて、両大統領が「対露制裁やウクライナへの支援策について協議したほか」、両国間の「安全保障協力を強化するための取り組みを始めることで一致した」とのホワイトハウス発表を報じた。
今回のロシアによるウクライナ侵略を最も敏感に受け止めているのはフィンランドではあるまいか。それはこの国が中立を標榜し、バルト三国の様なNATO加盟国になっていないこともあるが、スターリンのソ連とヒトラーのドイツに翻弄された第二次大戦以前からの過酷な経験のせいでもある。
フィンランドは、筆者の管見ではNATOに加盟しないと思うが、本稿では『物語 北欧の歴史』武田龍夫著(中公新書)と『ヴェノナ文書』の記述などから、フィンランドの「近現代」を振り返ってみたい。
その前に、4日のニーニスト訪米についてフィンランド外交政策研究所のミカ・アルトラ所長が7日、『フィンランド国営放送』に語っている記事を紹介する。
記事の見出しは「バイデンは支援を約束したが、見返りを求めていない訳ではない」。アルトラ氏は、米国が求める見返りの一つが、「フィンランドがNATOに向かうことなのは明らか」とし、それはフィンランドにとっても好都合かもしれないと言う。
しかしフィンランドが「非同盟国から同盟国へとその地位を変えないことも不可欠だ」とし、総じてNATO加盟に否定的だ。その理由を彼は「フィンランドは二国間協定でNATO以上の利益を得ることができる」とし、既に米英や北欧と結んでいる防衛協力に関する協定の存在を挙げる。
「08年のロシアのグルジア侵攻と14年のクリミア奪取は、国際安全保障政策におけるゲームを変えた」と彼は述べて、これらの防衛協力が、ロシアのこれらの軍事行動をきっかけに作成されたことを強調する。以下のリストはアルトラ氏の言を見事に裏付ける。
- 2014年05月06日 スウェーデンとの防衛協力の発展のための作業計画
- 2015年03月10日 軍備分野での協力に関する北欧政府間の合意
- 2016年05月09日 北欧兵器共同調達契約
- 2016年07月09日 英国との国防協力のためのフレームワーク文書
- 2016年10月07日 米国との二国間防衛協力に関する意図の宣言
- 2016年11月09日 容易な参入に関する北欧諸国間の覚書(Easy Access MoU)
- 2017年01月18日 エストニアとの防衛協力に関する枠組み文書
- 2018年05月08日 米国およびスウェーデンとの三者の意向表明(SOI)
- 2018年07月09日 スウェーデンとの防衛協力に関する覚書
注:ここでいう北欧とはフィンランド、ノルウェー、スウェーデン、デンマークを指す。
アルトラ氏は、NATOに関し「加盟国の多くが不安を感じている」と指摘し、米国と二国間防衛協定を結んでいるNATO加盟国としてノルウェーの事例を挙げる。その理由を彼は「NATOのような複雑な意思決定なしに、危機の最中に米軍の支援が保証される」と述べる。日米安保もそうあって欲しい。
彼はまた、今回の首脳会談をロシアがどう解釈するかはまだ「謎」としつつ、ロシアはフィンランドに対して「特に慎重な反応を示すだろう」とし、それはフィンランドが「今は崩壊しているとはいえ、ロシアとの関係が少なくとも部分的に機能していた唯一の民主的な隣国」だからだと述べる。
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では、フィンランドとソ連との間にはどんな来し方があったのか。それには日本も少々関係する。スカンジナビア半島の地図を広げると、大きなキノコの茎部のカレリア地方および笠部の東側がロシア領、茎の西側がフィンランド、北西側の大きな笠の北西部がノルウェー、東部がスウェーデンと判る。
1807年、ナポレオンに敗れたロシア・プロシア・スウェーデン連合はティルジット和議を結ぶ。が、ナポレオンはロシアに英国封鎖の協力見返りとしてフィンランドを与え、ロシアはフィンランドになだれ込む。2年後、スウェーデンはハミナ和議で13世紀から支配したフィンランドをロシアに渡してしまう。
ロシア皇帝アレクサンドル一世(在位1801-25。エカテリーナ二世の子パーヴェル帝とドイツ人フョードロヴィナ妃との子)は、征服者ではなく解放者の初代フィンランド大公として来たと演説、外交権を除く自治を広く認める。が、この民族の「シス」が、完全な独立を求めて燃え上がった。
「シス(SISU)」とは、フィンランドの国民性を表す、フィンランド語で困難に耐えうる力、努力してあきらめずにやり遂げる力、不屈の精神といった意味合いを持つ。
民族叙事詩『カレワラ』やそれに楽想を求めたシベリウスの交響曲「クレルボ」などは、そういった「シス」の発露という。その後、ニコライ一世の反動とアレクサンドル二世の寛大な時代を経て、ニコライ二世(在位1894-1917)の汎スラブ主義による異民族への恐怖政治がロシア革命まで続く。
1917年の二月革命でニコライ二世が退位、十月革命の後の12月6日、フィンランド議会は独立を宣言し、共和国が発足する。日本の関りは日露戦争。明石元二郎大佐が工作で英国から買った特殊船「ジョン・グラフトン」に爆薬3トン、ライフル1.5万丁、弾薬250万発を積み西側海岸に到着したが、荷下ろし途中で座礁、爆発する事件も起きた。
それらの武器弾薬は04年頃から活動していた独立運動家に渡すはずだった。独立したフィンランドでは、赤衛軍(革命ソ連から志願将校が参加)10万とマンネルヘイム(1867-1951。帝政ロシアの将軍を辞して帰国し、44年からは大統領)が組織した白衛軍7万との内戦になる。
両軍共1万前後の死者を出し、赤衛軍の捕虜1万近くが収容所や病院で死んだ。拷問や虐殺が疑われたマンネルヘイムは、左派知識人らから「共産主義者の殺人者」と呼ばれた。
事実上、戦争状態にあった革命ソ連とフィンランドを仲介したのはドイツで、両国は20年10月に平和条約を結ぶ。初代首相は退任、2代目にマンネルヘイムが就き、初代大統領にはヘルシンキ大学教授のストールベルイが就任した。
第一次大戦後、フィンランドはバルト海オーランド諸島と東カレリアの帰属問題を抱えた。オーランド島民は、話し言葉であるスウェーデンへの帰属意識を持っていたが、国際連盟は19年、非武装中立の下、フィンランドへの帰属を裁定した。
共産ソ連を嫌うカレリア地方のフィンランド系住民に併合を求められたフィランドは、ハーグの国際司法裁判所に付託するも、ソ連は管轄権を認めず、裁判所は審議を拒否した。結局、ソ連が東カレリアの自治を認めることで解決したが、この件でソ連はフィンランドを反ソ非友好国と見做した。
フィンランドもソ連の脅威を改めて認識し、革命ソ連の「コルドンサニテール」(防疫線から転じて革命ソ連のボルシェビズムを防ぐ思想の意)の一環を形成する。ポーランド主導でバルト三国との同盟構想が起きたが、閣内の意見対立でご破算になり、これを契機に中立が志向され、北欧に接近する。
フィンランドは北欧諸国と共に国際連盟に加入したが、イタリアのエチオピア侵攻などで連盟の無力を感じていたところへ、32年にソ連が不可侵条約を提案して来、嬉々として署名した。が、7年後に一方的に破棄され、赤軍がフィンランドに侵攻する。そこへヒトラーが不可侵条約を持ち掛けるが、これにはデンマークを除き、北欧は応じなかった。
この辺りは領土問題に係る、住民の帰属意識、国際機関の関与、地域の自治承認など、今も世界中でくすぶり続ける地域紛争の火種を想起させるキーワードに満ちている。
(後編へ続く)