シュツットガルト・バレエ団の輝けるスターたち

予定されていたシュツットガルト・バレエ団のカンパニーでの来日がコロナ禍で中止となり、若手ソリストを中心としたメンバーによるガラ公演が行われた。招聘元は逆境に強く、ベジャール・バレエの来日を三度目の正直で実現したことにも感動したが、「全員がダメなら少人数で」とシュツットガルト・バレエの精鋭を集めた公演を実現したことにも驚かされた。

この混沌とした時代にあって、守りに徹するのもひとつの在り方だが、なんとしてでも志を貫く逆境力には、日本の侍の精神を感じてしまう。去年の世界バレエフェスティバルも最初は賛否両論だったが、結果は大成功だった。

コロナ禍の上に、2月末にウクライナで戦争が起こってしまった。バレエダンサーは世界中に友達がいるので、精神的にこれはきつい。ロシアでボリショイからスミルノワが退団したというニュースが伝わってきたが、ロシアのダンサーはもはや西や東の感覚なく何十年もやってきたはずなのだ。時代が逆行し、銃をとって戦ったダンサーの訃報まで伝わってきた。舞台芸術はコロナ、紛争と何重もの困難と向き合っている。

最初の演目が、とてもソ連っぽい「春の水」というバレエだったので、これは鮮烈なメッセージだと思った。ボリショイ黄金期の名教師で振付家のメッセレルが振り付けた短いパ・ド・ドゥで、ラフマニノフの音楽に合わせてエリサ・バデネスとマルティ・フェルナンデス・パイシャが軽やかに踊った。バデネスが舞台に登場しただけで春が訪れたようで、ますます美しくなるバレリーナのオーラに見とれるばかりだった。

続く「ソロ」(ハンス・フォン・マーネン振付)は若い3人の男性ダンサー、ヘンリック・エリクソン、アレッサンドロ・ジャクイント、マッテオ・ミッチーニがバッハのヴァイオリンのためのパルティータに乗せて遊戯的な動きを見せ、一人が舞台上手に入ると次のダンサーが素早く下手から登場する。

最初二人のダンサーが踊っているのかと錯覚したが、途中から3人であることが分かり、面白くめまぐるしい振付に笑いがこみあげた。

マクミランの「コンチェルト」を踊ったアグネス・スーとクリーメンス・フルーリッヒのペアは初めて見たが、アグネス・スーはプリンシパル。荘厳な美しさのあるダンサーで、ショスタコーヴィチのピアノ・コンチェルトに合わせてクラシックの基本のポーズを完璧に見せていく。

この振付は無表情で踊るべきなのだろう。張り詰めた美しさがあった。マクミランはこういうバレエも作っていたのだ。オレンジ色の男女のコスチューム、太陽を思わせるオレンジ色の丸い照明も印象的だった。

唯一チュチュを着て現れた若手のマッケンジー・ブラウンはプリンシパルのデヴィッド・ムーアと『眠れる森の美女』のグラン・パ・ド・ドゥを踊ったが、初々しさと可愛さが全身から溢れていて好感度が高かった。見るからに緊張気味なのだが、日頃から充実したレッスンを重ねていることが伝わってくる。未知数のバレリーナで、クラシックの規律の中に温かみも感じさせ、理想のオーロラだと思わせた。性格的な魅力が凄い。2019年のローザンヌで1位とコンテンポラリー賞、観客賞を受賞している。

同じ若手のガブリエル・フィゲレドと最終日に同じ演目を踊るはずだったが、フィゲレドの来日が叶わなかったためこのペアは今回観ることが出来ない。この日は先輩のデヴィッド・ムーアまで初々しい感じで、「クラシック・バレエって本当にいいですね~」と、映画解説者の水野晴郎さんのように解説したくなった。

第二部は濃厚なパ・ド・ドゥが続いた。エリサ・バデネスとデヴィッド・ムーアの『椿姫』の第2幕のパ・ド・ドゥでは、ピアニストの菊池洋子さんのショパンのソナタ3番ラルゴ楽章の演奏も素晴らしく、バデネスが完全にバレリーナとして充実期に入っていることを感じさせた。

オペラ座のドロテ・ジルベールも、可愛い娘役が似合っていた時代から、突然妖艶な花を咲かせた瞬間があったが、同じものを感じる。無敵のシュツットガルト・ダンサーとしての完成形を見た。

コンテンポラリー「やすらぎの地」は、前半にも踊った準ソリストのアレッサンドロ・ジャクイントによる振付で、彼自身とヘンリック・エリクソンが踊った。前半はノイズ・ミュージックで、後半からメロディアスなギター・ポップになるのだが、思春期的な心の疼きを感じさせるダンスで、男性ダンサー二人の絡みがスリリングなほどだった。

この日が世界初演の新作だったが、ジャクイントは既に7つの作品を発表している。シュツットガルトはこうした貴重な才能をもつダンサーを何人も輩出しており、カンパニーの土壌の豊かさをつくづく感じさせる。

クランコ作品は『オネーギン』の第1幕のパ・ド・ドゥで、本来ならカンパニーの公演で見られるはずだった。プリンシパルのロシア・アレマンとマルティ・フェルナンデス・パイシャが魅力的なペアだった。タチヤーナが恋文をしたためながら幻影のオネーギンと踊る場面は、何度見ても胸が高鳴る。オネーギンが鏡の世界からふらっと現れる感じは、ニジンスキーが踊る「バラの精」に似ていると気づいた。

フォーサイスの「ブレイク・ワークス1」より「プット・ザット・アウェイ・アンド・トーク・トゥ・ミー」は、クレジットをよく見ていなかったので良く出来たコンテンポラリーだと感心していたのだが、成程のフォーサイス作品だった。

アグネス・スーとマッケンジー・ブラウンとマッテオ・ミッチーニの3人が優れた技術とユーモアで、難解で楽観的なダンスを披露し、特に女性ダンサー二人のシンクロする動きが、それぞれ別のメッセージを放っているのが良かった。「フォーサイスもこじれる前はいい作品を作っていたんだな」と思ったら、2016年初演で結構最近の作品だった。

マクミランの奇抜な傑作「うたかたの恋」では、いよいよフリーデマン・フォーゲルが登場。盛大な拍手が巻き起こった。このバレエは昔ロイヤル・バレエで見て、マクミランのある種の猟奇性みたいなものに震撼したのだが、それほど「病んだ」バレエを今こそ観たいという気分だった。ルドルフ公の自己矛盾、精神の痛みが凄まじい表現で、それを篭絡する若き恋人マリーを演じるバデネスの演技がさらに憑依的。

言葉で多くを語るのがためらわれるほどの世界だった。昨年行った来日のためのリモート・インタビューで「ルドルフを踊り終わった後は、楽屋で崩れ落ちてしまう」とフリーデマンは語っていたが、生まれつき毒や病をもたない健全な魂にとって、きついバレエなのかも知れない。マクミランは鬼か悪魔か…しかし、シュツットガルトでどうしても全幕を観てみたいと渇望してしまった。

二度目の休憩の後、いよいよフリーデマンがメロディを踊る『ボレロ』。東京バレエ団との共演で、今まで見たことのない驚きのボレロだった。

ギエムや首藤康之さん、ニコラ・ル・リッシュや上野水香さん、柄本弾さんや、BBLの昔の海外公演ではあまりうまくないダンサーが踊るのも見てきた。最新では、ベジャール・バレエのプリンシパル、ジュアン・ファヴローが見事だった。多くの踊り手は生前のベジャールに指導を受け、振付家からダンスのエッセンスを受け継いでいる。

フリーデマンのボレロは、まずシュツットガルト・ダンサーの肉体ということを考えさせられた。皆、どんな技術的・演劇的なニーズにも応えられるよう鍛えられており、柔軟で美しい。前半のコンテンポラリーでも、シュツットガルト・バレエの充実した日常が男性ダンサーのボディを作っているという印象を得た。それはヒューマニスティックで明るいもので、ロイヤル・バレエともボリショイとも異なる。

ボレロの細かい動きを、音楽と完璧にあわせて表現するフリーデマンのメロディは、途中で獣か火の龍に「変身」してしまうドンとは異なり、最後まで人間的だった。ジュリアン・ファヴローもそうした「削り取った」シンプルなボレロを踊るが、彼にはベジャールとのストーリーがあり、その意味で隠れた重みがある。男性と女性では振付が異なる部分があるという。フリーデマンは何となく中性的で、音楽の昂揚とともにどんどん少年に戻っていく。身体への負荷が大きくなるにつれて、元気いっぱいになっていく。

「これがフリーデマンのすっぴんの魂なのか!」と、何だか笑いが止まらなかった。なんと明るくて正義感に溢れ、真実を疑わない勇敢な魂なのか。

病に憑りつかれたルドルフを踊った後に、ボロボロになってしまう正直さ、ボレロで太陽のように輝いてしまう率直さ。ダンサーは魂を隠せないのだ。

シュツットガルト・バレエは色々なことを教えてくれる。戦争が起こったとき、島国にいるのと国境が陸続きなのでは危機感も違うと思うが、国の地形や歴史は芸術や人間性にも潜在的に影響を与えていると感じた。「人間とは大変なものだよね」というとき、中央ヨーロッパの人々は受け止め方が、すごい。そこには手が届かないほどの崇高な楽観と、ユーモアがあるのだ。自分がバレエや音楽を通して認識したいのは、そうした遠い国の人々の卓越した精神性なのだと思った。フリーデマンの太陽のボレロは、すべての答えだった。