点滴、人工呼吸器は意味ない
医師兼作家が自分の体験を踏まえて書いた「上手な死に方」を説く新刊を読み、「うーん」と、何度もうなりました。「医師がそんなことまで言っていいのだろうか」、「でも本当はそうなのだろう」と思いました。
書き出しから「医師として患者さんの最期に接し、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら悲惨な最期を迎えた人を少なからず見てきました」と、遠慮がありません。
「死ぬ間際にする点滴は、場合によっては患者さんを溺死させるのに等しい。酸素マスクは猿ぐつわ、胃ろうは活ける屍への第一歩で、本人を苦しませるだけ」と。われわれが感覚的に考えている常識をひっくり返されます。
著者の久坂部羊(くさかべ・よう)氏は阪大医学部卒、大きな病院での勤務経験を持ち、「最も熱心に取り組んだのはがんの終末期医療でした」という人物で、新刊の著書の題名はすばり「人はどう死ぬのか/新しい『死に方』の教科書」(講談社現代新書)です。
若い人、回復の見込みがある人が対象ではありません。「家族や自分の死が間近に迫った時の最良の方法」がテーマです。
ある講演会の質疑で高齢者が「点滴やチューブでベッドに縛りつけられ、人工呼吸器をつけられて最期を迎えたくない。どうすればいいのでしょうか」と。筆者は「いい方法があります。病院に行かなければいいのです」と。会場から笑い声があがりました。
「最後は病院に行くのは当たり前と思っている人が多い。現に7割以上の人が病院で亡くなっている。病院は診療が建前だから、患者さんがきたら検査と治療をせざるをえない」と。無意味な点滴、チューブが待っている。悲惨な延命治療が待っている。
超高齢者や末期がんの人で、徐々に死に近づいている場合は、「病院に行くな」なのです。
ですから「病院死より在宅死、高度な医療をしないで看取る老人ホームでの死のほうがよい」と。「病院に行くな」「救急車は呼ぶな」となる。もっとも万一の場合に慌てないように、自分の意思を事前に決めておく「アドバンス・ケア・プラニング」(ACP)を著者は薦めます。
「心肺停止状態になった時に蘇生処置を受けない」、「呼吸困難になっても人工呼吸器をつけない」、「食事が摂れなくなっても胃ろうはしない」などです。家族とも話し合い、無闇に病院に運び込まない。
人は死を避けられないのだから、死を恐れてはならない。恐れるから不安になる。著者は「死後の世界なんかないと思う」という。そんなものがあったら、「これまで亡くなった何億人もの人でいっぱいで、もう入りきれないはず」と、作家らしい主張です。
私たちは葬儀で死者の顔を見て、「今まで生きていたような表情だ。安らかに眠るように亡くなった」と思い、安心します。肉親の場合は特にそうでしょう。どうも実際は、それとは違うようなのです。
「亡くなると、エンゼルケアという死後措置を施す。口紅を引き、頬に紅をさし、眉とアイラインを引くと、生気を帯びた寝顔のようになる」。なるほど、そうしたことだったのかと、納得します。
「望ましい死に方のイメージとしてポックリ死がある」。私もガンなのではなく、ポックリ死を望んでいます。「具体的にポックリ死の可能性があるのは、心筋梗塞、脳梗塞、くも膜下出血などだ。発作と同時に意識を失うわけではなく、激しい痛みに襲われる」。それでは困ります。
「人生100歳時代」とかいって、長寿社会の礼賛、医療の進歩、健康管理の紹介などがメディアに溢れています。著者は懐疑的です。「100歳まで生きて悲惨な状況の患者さんを間近に見てきた。筋肉痛、関節痛、頭痛、不眠、心不全など、老いの現実は苦しみが多い」と。
「コロリと死ねるのは、若いうちから不摂生をしてきた人。ヘビースモーカー、毎晩の酒、カロリーオーバー、運動不足、血液検査は異常値ばかりという人ほどコロリと死ぬ」。
「健康管理に努めてきた人はなかなか死なない。ピンピンダラダラ、ヨロヨロになる」。意表を突かれる指摘でした。
編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2022年3月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。