ウクライナ危機と「ブタペスト覚書」

ウクライナのゼレンスキー大統領は20日、イスラエルの国会(クネセト)でビデオ演説をした。9分余りの短いスピーチの中で、同大統領はロシア軍の激しい攻撃を受けているウクライナの状況をナチス・ドイツ軍のホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)と比較して語った。それに対し、イスラエル国内ではウクライナの状況に同情しながらも「両者の比較は適切ではない」といった声が聞かれた。

ウクライナ武力侵攻を宣言するプーチン大統領(2022年2月24日、クレムリン公式サイトから)

自身もユダヤ人のゼレンスキー大統領はイスラエル政府の調停努力に感謝する一方、①武器を供給しなかったこと、②ロシアに制裁を課さなかったこと、③ウクライナ難民を十分受け入れなかったことなど挙げてイスラエル側を非難した。そのうえで、ロシアの攻撃を受けているウクライナ情勢をホロコーストと比較し、ナチスがユダヤ民族の抹殺計画を「最終的解決」と呼んだように、ロシアは今、ウクライナへの侵略を「最終的解決」と考えていると主張した。

イスラエル議員たちを不快にさせたのは、イスラエルへの非難ではなく、ウクライナ情勢とホロコーストを比較した部分だ。ヤド・ヴァシェムの「ホロコースト記念館」のダニダヤン館長は、「ゼレンスキー大統領はわれわれに謝罪すべきだ」と述べ、「ホロコーストとロシア軍の侵略を明確に区別すべきだ。ロシア軍がとった行動の多くは、常軌を逸しているが、両者を歴史的に同列視し、最終的解決といった内容まで言及することは許されない」と批判した。ただ、ナフタリ・ベネット首相は、「ホロコーストとの比較は適切ではなかったが、ゼレンスキー大統領の痛みは理解できる」と述べ、戦時中の若き大統領の立場に配慮している。

イスラエル国民にとってウクライナといえばやはりナチス・ドイツ時代の迫害を想起する人が少なくないだろう。ロシア軍はここにきてウクライナ最大の湾岸都市オデッサ市へ攻撃を始めたが、オデッサ市には、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)前は米ニューヨーク、ポーランドのワルシャワに次いで世界3番目に大きいユダヤ人コミュニティがあった。同市だけで当時、40以上のシナゴークがあった。

ウクライナのユダヤ人は波乱の歴史を体験してきた。帝政ロシア時代や第2次世界大戦前後のポグロム(ユダヤ人への殺戮・略奪・破壊・差別)を経験し、1930年代にウクライナに入ってきたナチス・ドイツ軍はユダヤ人コミュニティをほぼ壊滅させていった。独週刊誌シュピーゲル(3月5日号)によると、ナチス・ドイツ軍はウクライナ全土で100万人以上のユダヤ人をガス室に送ったり、飢餓死させたという。スターリン時代に入っても、多くのユダヤ人が粛清された。

ゼレンスキー大統領がウクライナのユダヤ人の歴史にあえて触れ、「ホロコースト」、「最終的解決」といった表現をイスラエル国会での演説の中で言及したことは賢明であったかは微妙なところだ。エルサレムからの情報によると、ゼレンスキー大統領は21日、イスラエル側の調停交渉に重ねて感謝することで、前日のスピーチでもたらしたイスラエル側の反発、批判を和らげる努力をしている。

ゼレンスキー大統領のクネセト演説後、ウクライナ問題に関連して「エルサレムポスト紙」にギル・トロイ記者の興味深い記事(3月22日)が掲載されていた。ウクライナが1994年、ソ連時代からの核弾頭(1700個)をロシア側に引き渡さなかったならば、現在のウクライナ危機は異なったものとなっていただろうという内容だ。

1991年にソビエト連邦が崩壊した直後、ウクライナにはソ連の核兵器の3分の1があった。ウクライナは世界で3番目の核兵器保有国でもあったわけだ。しかし、「ブタペスト覚書」によって核弾頭を放棄した。同覚書は1994年12月5日、ハンガリーの首都ブダペストで開催された欧州安全保障協力機構(OSCE)会議において署名されたもので、ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナが核不拡散条約(NPT)に加盟し、国内の核弾頭を放棄する代わり、協定署名国が3国に安全保障を提供するという内容だ。

トロイ記者は、「もしウクライナが核弾頭を放棄しなかったならば」という「if」に基づいたストーリーを展開させている。果たして、プーチン氏は核保有国のウクライナに対し、非武装化、非ナチ化を掲げて侵攻できただろうか、といった問いかけだ。

現実は、プーチン大統領は28年後、核を有さないウクライナにロシア軍を侵攻させ、「ブタペスト覚書」を反故したわけだ。記者は中東の和平交渉を意識しながら、国際社会の無力さと「ブタペスト覚書」のような政治的な約束の無意味さを指摘したわけだ。

核拡散防止は国際社会の重要な課題だが、現実の世界では依然、核抑止は否定できない。第2次世界大戦後、人類が大きな戦争を回避できた最大の理由は核兵器の存在にあった、ともいえるからだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年3月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。