誰が「怪物」の出現を許したのか

3月22日の参議院予算員会で共産党の田村智子氏が、2016年、クリミア併合に対するEUの経済制裁を支持する一方で、日本がロシアに8項目の経済協力プランを提案したことを批判、当時の安倍晋三首相と岸田文雄外務大臣の責任を追及した(しんぶん赤旗、2022年3月22日)。

安倍氏をめぐっては、プーチンとの首脳会談を24回も重ねながら、成果を出せなかったばかりか、プーチンを「慢心させた」(日刊ゲンダイ、2022年2月27日)との批判もある。確かに安倍氏の対ロ外交は、結局のところプーチンをつけ上がらせただけとの印象が否めない。

プーチン大統領 クレムリンHPより

もっとも、プーチンをおだてて、その権力固めに貢献した西側リーダーは安倍氏だけではない。トランプのプーチン贔屓はよく知られているが、まずはジョージ・W・ブッシュだろう。2001年、プーチンとの初の首脳会談で、ブッシュはプーチンを「率直で信頼に足る男だ」と持ち上げ、プーチンへの甘い態度は2008年のジョージア侵攻(南オセチア紛争)を許すことになった(The Atlantic, March 3, 2014)。

イギリスのトニー・ブレアも、国内におけるロシアへの根強い不信の中、大統領就任前からプーチンと会談し、「ロシアの近代化、欧米との新しい関係を目指している」と高く評価した(The Guardian, 17 April 2000)。その後、ロンドンのシティにはロシアのオリガルヒの資金が流れ込み、イギリスの金融経済隆盛の一翼を担った。オリガルヒの財力はプーチンの権力基盤を支える一方で、今や彼らはイギリスの政治、経済、社会システムに深く侵入している(The New Yorker, March 17, 2022)。

なかでも罪深いのが、1998年から2005年までドイツ首相を務めたゲアハルト・シュレーダーだ。誕生日パーティに駆けつけ、肩を抱き合うシュレーダーとプーチンの親密な関係は「ブロマンス(bromance)」と揶揄されている。1998年に緑の党との連立によって政権についたSPDのシュレーダーは、2002年原子力法を改正し、脱原発に舵を切った。原子力を代替するばかりか、クリーンエネルギーの天然ガスの豊富なロシアに、シュレーダーの関心が向かうことは自然な成り行きだったと思われる。

2005年の選挙において、SPDは僅かの差でCDU/CSUに敗れ、シュレーダーは下野し、政治からも身を引いた。ところが、2006年同氏はロシアの国営天然ガス会社ガスプロムが出資するガスパイプライン会社の会長に、2017年にはロシアの国営石油会社ロスネフチの会長に就任した。さらに本年2月、ガスプロムの取締役に指名されロシアの資源ビジネスの中枢に入り込んだ(日経新聞、2022年2月5日)。2011年には、ロシアから直通でガスを輸送できる海底パイプライン(ノルドストリーム)が敷設され、供給コスト削減とスピード化が実現した。

シュレーダーは政治家引退後もドイツ政界に強い影響力を持ち、ドイツのエネルギー政策はロシアの天然資源に深く依存する形で展開された。原発全廃に躊躇していたメルケルも、福島の原発事故を受けて、2022年末までの脱原発の達成を決定したうえ、温室効果ガスの排出量を2030年までに1990年比で65%削減するという目標を打ち出したため、ロシアの天然ガスへの依存は不可避であった。EUを牽引するドイツ経済を支えるにはエネルギーの安定供給は欠かせない。

ドイツのエネルギー供給源(2021年)のうち、天然ガスが占める割合は26.7%で、うち55%がロシアからの輸入、また石油と石炭も3割から2割を占め、全エネルギーの30%をロシアに依存している(VOXEU, 25 March 2022)。

ロシアの資源なしにはドイツ経済は減速するが、ロシアも輸出によって大きな利益を得てきた。ゼレンスキーがドイツ議会における演説で「ドイツが経済を優先してきた」と強く批判したのも、資源のロシア依存から厳しい制裁に踏み切れない一方、ドイツとの取引がロシアの戦費になっているからだ。

西側リーダーたちは程度の差こそあれ、プーチンに迎合し、過剰な自信を与え、妄想を抱かせ、侵略の資金づくりに協力した。だが、そのリーダーを選んだのは私たち国民だ。しかも、リーダーたちには、開かれたロシアと経済的にウィンウィンの関係をつくり、自国経済の安定成長を促したい、加えてドイツでは脱原発と冒険的なCO2排出量削減目標の達成を実現させたい、日本の場合は北方領土問題の解決を図りたいという政治的な意思があったはずであり、それは取りも直さず国民の望みである。

民主的に選ばれた為政者は国民の要求に敏感だ。そして、国民の要求は止まるところを知らない。プーチンの暴走を許したのは、飛躍しすぎとの批判を覚悟で言えば、貪欲に豊かさを追い求める私たち自身なのではないだろうか。