復讐と復習:ウクライナ侵攻とアカデミー賞からの一考察

1. ウクライナの泥沼 ~復讐の連鎖~

泥沼状態、とはこのことを言うのであろう。

アウトドアの画像のようです

ゼレンスキー大統領FBより(編集部)

ロシアのウクライナ侵略開始から1か月強が経つが、軍事的にも、政治的にも未だ決着の兆しが無い。一時は首都キーウの陥落は時間の問題だとみられていたが、ロシア軍は少なくとも一時的には首都制圧を諦め、マリウポリ制圧など東部に戦力を割く見込みだ。

ロシア軍は陸上総兵力の半分~2/3の約15万人~20万人をウクライナ侵略に割きながら、既にその1/10近い1万人~1.5万人の死者を出しているとの説が有力だ。戦闘能力を失った傷病兵を含めると凄まじい損傷率だと言える。

そして、戦闘が予定より長引き、春の訪れで凍土が溶けだしている中、文字通り、ぬかるみ(泥沼)に足を取られ、戦車等の戦力を大きく損耗しているとも言われる。士気も低く、持ち場の放棄や食料・物資不足からの略奪事例も頻繁に報じられている。

今後、ロシア軍は、戦争の成果・意味を強調するためにも、既に制圧した地域や、東部に集中した後の今後の制圧地域での支配を固めに行くと思われるが、ウクライナ政府や市民はそれを容易に認めはしないであろう。支配地の確定について、両国の交渉での決着が難しくなるとすると、戦闘も交渉も泥沼状態から抜け出すのはなかなか容易ではない。

もちろん、褒められた動きではないが、最初から東部侵略に限定していれば別の展開もあり得たものの、プーチンは全面侵略というとんでもない悪手を指してしまったというのは、前回のこのメルマガなどで詳述したとおりだ。

上記のような短期的な意味での泥沼状態も懸念されるが、より深刻なのは中長期的な泥沼、即ち、復讐が復讐を生む連鎖である。

ロシア軍の侵略で多大なる犠牲を強いられたウクライナの人々は、恨み骨髄に達しており、容易なことではプーチン・ロシアを許さないであろう。そして、元をただせば、今回のロシアの侵略は、ウクライナ東部におけるロシア系住民に対するアゾフ大隊などのウクライナ側の非道への復讐であり、更に巨視的に見れば、冷戦終結後に味わった苦痛に対する復讐とも言える。

思えば冷戦の雪解け、ソ連の崩壊に沸いた90年代前半。その引き金を引いたゴルバチョフの胸にあった期待は「欧州共通の家」(ゴルバチョフが提唱した構想)であった。東西ヨーロッパの分断状況を失くし、ソ連(ロシア)も含めて、みんなで仲良く、西も東もなく共同で冷戦後の秩序を作る。そんな理想が彼の胸中にあったことは想像に難くない。

しかし、ソ連時代の苛烈な支配に対する復讐心は思いのほか強かった。そんなユートピアに対する信用も信頼もなかった。ソ連崩壊後も残り続けたNATOには雪崩を打ってロシアの仲間だったはずの東側諸国が加盟するところとなり、西側諸国自身もまた、冷戦時代に何だかんだと嫌な思いをさせられてきたソ連(ロシア)を許す気にはならず、むしろ喜んでロシアを追いつめる形で勢力圏を拡大していった。

結果、ワルシャワ条約機構などを投げだして融和を求めたはずのロシアは、裏切られた感を強く持ち、孤立し、そして逆ギレをしていく中でプーチンという強いロシア復活に向けて邁進するモンスターをトップに抱くこととなる。

ロシア軍は、現在、ウクライナ東部の支配を固めるため、マリウポリなどの住人を強制的にロシアに移住させているとの話がある。最悪の場合、ロシア系の住民をマリウポリなどに移住させ、意に沿った形での住民投票を実現していくとの説も取りざたされている。こうなればもう、ウクライナはもちろん、人道主義を旨とする欧米諸国は容易にはロシアを許さないであろう。まさに復讐心が復讐心を呼び、将来に大きな禍根を残すことは必定である。

2. 『ドライブ・マイ・カー』に見る“必ずしも幸せではない「復讐の断絶」”

ウクライナ侵略の状況、コロナ感染者の増加、石油価格の上昇、北朝鮮のICBM発射実験など暗いニュースが続く中、久々に明るいニュースとなったのが、日本の浜口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』が、米国アカデミー賞の外国映画賞を受賞したニュースだ。2009年の『おくりびと』以来だそうだが、本作品は、アメリカとはテイストを異にする仏カンヌ国際映画祭でも四部門で受賞しており、日本アカデミー賞でも作品賞などを受賞している。深みを持った特異性をもちながら、普遍的に評価される強さが凄い。

何の因果か、今話題のロシアが誇る劇作家チェーホフの四大戯曲の一つである『ワーニャ伯父さん』を劇中劇として巧みに描きつつ、舞台俳優で演出家の主人公家福の喪失と再生への仄かな香りを軸に描いた作品である。昨年の秋頃であっただろうか、私も一人映画館でこの映画を観たが、3時間の大作でありながら、一気に観客を想像と混乱の世界に誘い込む力強さに引き込まれたことを覚えている。

原作の村上春樹の短編集も既読であったのだが、収録されていたいくつかの短編を『ドライブ・マイ・カー』に集約して昇華させている見事な脚本力にも圧倒された。思えば、これまた唸りながら観た話題作『スパイの妻』(黒沢清監督)の共同脚本も浜口竜介氏である。浜口監督の代表作である『寝ても覚めても』も条理と不条理をテンポよく見事に交錯させた名作だと感じているが、凄い才能が現れたものだ。

このまま書き続けていると、ネタバレを含む映画評論になってしまうので、結論から書くが、私の言葉で言えば、この映画の最大のテーマは、「本当の愛の表現」ということであり、突き詰めれば、「痛みを引き受ける勇気」と「見過ごす大人性」のいずれを人間は愛の発露として求めるべきなのか、ということになる。

大好きな妻の不倫に激高し、復讐心に燃えてしまう可能性も含め、全てを引き受けることが愛なのか。それとも、もしかするとまさに妻が死を迎えるその日の朝に「話がある」と言われて避けるように遅く帰ったことが象徴する「大人性」、知っていながら何かを壊さないために保ち続けていた平和志向こそが愛なのか。

家福は、恐らくは潜在的に、或いは明らかな意思を持って、復讐が復讐を生んでしまう事態を避けていた。心臓を素手で触られてしまうような冷たい真実を知ることによって、或いは、何かおどろおどろしい深い谷間を見てしまうことによって、「現在(いま)」に戻ってこられない事態を避けた。しかし、そのことによって、取り返しのつかない喪失感も抱くことになってしまった。妻が死んで最初の選択肢を決定的に失ってみると、もう、出口はない。

同じく米国アカデミー賞の作品賞にノミネートされていた巨匠スティーブン・スピルバーグ監督の『ウェスト・サイド・ストーリー』は、他界した母が大好きだった作品のリメイク版であるが、これまた名作である。母を懐かしみながら一人、救いのない最期に映画館で涙した。

この作品は、NYを舞台に、地場のワルたちとプエルトリコ移民との対立を描いた物語だが、一言で言えば、復讐の連鎖による悲劇である。上の分類でいえば、目指していたはずの「やり過ごす大人」にも結局なり切れず、事実を見れば見たで感情が高ぶってしまい、と、中途半端に痛みを引き受けてしまったが故の悲劇だ。国籍(厳密にはプエルトリコは米国だが)や人種の違いによる不信感は根強く、人間はそう簡単にどちらに振り切れるものではない。ほぼ同じテーマ(プエルトリコ移民の苦しみ)・場所(NY)でハッピーエンドに心和む昨年の映画が、名作『イン・ザ・ハイツ』で、これまたお勧めの一本だが、実際はそう簡単にはいかない。

その点、上の2作を抑えて米国アカデミー賞の作品賞に輝いた『コーダあいのうた』は、徹底的に事実を引き受けてぶつかり合いつつ、愛をもって大人性を発揮して困難を乗り越えていくというハッピーエンドなストーリーで、とても素晴らしい作品だ。個人的には、作品としては、『ドライブ・マイ・カー』の方が作品賞に相応しい深みのある作品だと思ったが、まあ、陽気や分かりやすさを好むアカデミー賞らしいと言えばアカデミー賞らしい作品だ。

個人的には、この映画の舞台に深い思い入れがある。ボストン郊外のケンブリッジ市に約2年住んでいる間(留学)、大変お世話になった米国人老夫妻が、私たち夫妻が米国を去る最後の時に「人生最高」と言っても過言ではないようなレストランに連れて行ってくれたのだが、そこがまさに、舞台となっているグロースターであった。

留学初日が9.11となり、イスラム系差別や余波としてのアジア系差別が蔓延するアメリカでの暮らしという最悪のスタートをきった私のボストン生活だが、また、巻き舌のロシア人の大家とのトラブルで大変だった私の暮らしではあったが、全てを包み込んでくれる愛情あふれる米国人老夫婦のお蔭で、とても彩(いろどり)のある生活を送ることが出来た。人類愛は人種を越えることを小奇麗な言葉ではなく、体感として理解することが出来た。そんな人類の可能性に思いを馳せつつ、映画中のグロースターの灯台を見て、思わず懐かしくて涙が込み上げてきた。

話を『ドライブ・マイ・カー』に戻そう。劇中劇のワーニャ伯父さんは、途中、激高してピストルを発砲する。大人になり切れない彼は、内心見下している老教授(自分の想い人を妻としている老教授)を前に、自分は本当はドストエフスキーにもなれた、とのルサンチマンを抱えている。私に言わせると、ワーニャが「あのままソ連だったら、今頃もっと大国のはずだった」というプーチンに重なって見えるわけだが、老教授夫妻は、ワーニャの激高を受けてある意味妥協し、移住先として、皮肉にも現在のウクライナ第二の都市、激戦地のハリコフを選ぶ。

家福は演じながら何を想ったのだろうか。「事実を受け止め感情を吐露すること」とその真逆の「大人性」。愛するとはどういうことなのか。対象を大切にするのはどちらなのだろうか。気持ちを抑えて復讐の連鎖を断てば、即ち「幸せ」(自分にとっても、対象にとっても、周りにとっても)が待っているわけでもない。

3. 人類は何を“復習”すべきか

以上、ウクライナの現状やアカデミー賞を題材に、とりとめもなく、人間の感情への向き合い方と全体の幸せについて、結論の出ない話を論じてきた。復讐の連鎖は断ちたいが、見て見ぬふりをすれば済んだり幸せになったりするわけでもないという、この人間という存在のやるせなさ。

復讐とはまた違うが、最愛の母を亡くした私もまた、どこまで感情を吐露して悲しむべきなのか、大人になって前を向くべきなのか、うまく感情も生活もコントロール出来ていない。一人になりたくなったり、また逆に仕事を詰め込むだけ詰め込んで気張ってみたりして、寝られない時間だけが積み重なって行く。

引き受けつつ、向き合いつつ、しかし、時に大人になって乗り越える。ベタな結論だが、そこに愛があるかどうかが大切なのであろう。大いなる愛。

ロシアが感情をむき出しにしてウクライナに襲い掛かっている事実は、ウクライナ人に、また、米欧を中心とする国際社会に復讐心しか残さないであろう。ロシアが苦境に陥れば陥るほど、そして、アメリカがエネルギー輸出や武器輸出で潤い、自国軍や自領を汚すことなくロシアを潰す方向で成功すればするほど、中国やその他ロシアへの同情を持つ国々(意外に少なくない)は、アメリカや欧州への復讐心に燃えるであろう。

出来ることは、外交努力であり、もっと言えば、排除ではなく包摂である。冷戦後、ずっと追いやられてきたロシアにも、どこかで愛の手を差し伸べて包み込むことである。改めて書くまでもないが、日本もロシアには煮え湯を飲まされてきた。先の大戦の末期、戦況が絶望的な中、ソ連の仲介に最後の可能性を見出していた戦時中の日本政府のナイーブさよ、と言えばそれまでだが、期待していたロシアに裏切られ、不当なシベリア抑留をされ、満州や樺太で酷いことをされた。北方領土はもはや返って来る兆しすらない。

事実から目を背けずに見つめ続け、時に感情をぶつけ合い、それでもなお、大人になって愛を持って臨むこと。ロシアの感情に向き合いつつ、それを引き受けてこちら側の社会に引き込むべく日本が汗をかいて仲介の労をとること。今は、それこそが人類への愛の発露であるとしか想像が出来ない。

戦争の辛酸をなめ、人間を深く洞察する作品を数多く生み出す文化大国である日本。とてつもなく長い歴史を持ち、色々な経験を積んで、経済的文化的に様々に包摂ができる日本(日本の皇室はギネスブックも認める最古の王朝)。そんな日本の政治や外交に、世界を良い方に変えていくような超大人性の発揮を期待することは無理なことであろうか。