「多くの国民の犠牲を防ぐために早く白旗を挙げて政治的妥協をすべし」という主張に対する違和感の正体

松川 るい

時間がたつのは早いもので、もう2週間前になってしまうが、ある討論番組で、「ウクライナで沢山の犠牲者が出ているのだから、ゼレンスキー大統領はすぐにも政治的妥協をして停戦すべき」だとのコメンテーターの主張に対し反論する機会があった。地上波につきCMで切られてしまったが。。。私は「国民や国土への被害が甚大だからこれ以上の被害を甘受するより妥協すべき場合がある」ということ自体はおかしな主張だとは全然思わない。特に大量破壊兵器使用の可能性があればなおさらである。

他方で、その主張には何かしら村上春樹風に言えば「正しくないもの」が含まれているようでずっと違和感一杯だった。その正体は一体何なのだろうと考えていた。

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まず一つは、それは極論すぎるということだった。被害を拡大させたくないというのはゼレンスキー大統領こそが一番願っていることだろう。その上で、属国化される場合の被害の度合いを考えてどこまで頑張るかということはいつも彼の心の中で考え続けている当然のことであって、外国人が知ったかぶりで踏み込んでいという態度に違和感というのはあったと思う。

2つ目は、最初に、なぜ、ロシアではなく、侵略された側に妥協を迫るのか、まだ善戦しているのに、ということだったとは思う。戦争における結果は、停戦時の戦局によって左右されるのは常識だから。そして、無辜の民に多大なる被害をもたらしているのはロシアの悪業なのだ。

その後、3月24日に、参議院外交防衛委員会にて、グレンコ教授(ウクライナ出身)の参考人聴取の中での和田まさむね議員の質疑があり、最初の1点については氷塊した。妥協した方が、つまり、属国になった方がひどい目に遭うということはチェチェン戦争など見てもロシアの場合明らかということは大変説得力があった。グレンコ教授はそれ以上は限られた数分の回答の中ではこたえる機会がなかったものと思うが、私はそれ以上のことがあると思うのだ。

国を守るということは、どういうことなのか。

国家と国民は必ずもイコールではない。

国民に我慢を強いてでも守らなければならない「国」というものがあると私は思う。

たとえば、日本の例でいえば、私たちの日本という国は、いまここに生きている私たちだけのものではない。この日本列島で何千年もの歴史が面々と引き継がれてきた。今生きている私たちも子供やその子孫たちに引き継いでいく責任があると思う。そうした総体としての日本という国を大事にしていくことは大切なことではないだろうか。

もちろん、普段は、「国」は国民を守るために存在しているとも思う。その「国」はただの国民を守る装置なのだから、「国民」が危険になったらさっさと放棄してもいいのかどうなのか。そんな簡単なものではない。もしも、世界中の人がそう思うなら、今頃、全世界の民がディアスポラではないだろうか。

今、こんな光景を21世紀に見ることは想像だにしなかったが、日々、ロシアによるウクライナ侵略の現場をテレビで見る。無辜のウクライナ国民が殺されることは耐えられないというのは、外国人である日本人の私たちなどの数千倍もゼレンスキー大統領が一番そう思っているだろう。

それでも、すぐに白旗を挙げてロシアの要求をのめばいいではないかといわんばかりの意見には賛同しかねる。戦争指導者が国民の命と国土のためにどこかの時点で妥協すること自体には一理あるだろう。フランスがドイツに降伏した理由の一つはパリの美しい歴史的街をノートルダム寺院を破壊されたくないということだったのかもしれない。日本だって、広島、長崎に原爆が落とされる前に降伏すべきだったのだろう。

でも、たたかわずして白旗を挙げて侵略者の要求をのめば、それで平和になるというのは幻想にすぎない。属国になればもっと酷い目にあう。そして「祖国」がなくなってしまう。それがわかっているから、祖国のために人は戦うのだ。チャーチルがドイツと最後まで戦う(We shall never surrender!)ことにしたのも、バッキンガム宮殿やウィンザー城にナチスドイツのハーケンクロイツの旗が翻る光景を死んでもみたくないというイギリス人が多かったからである。

なぜウクライナの人たちは立ち上がって戦い続けているのか。それは、彼らの愛する祖国をこの世から消したくないからだ。ロシアの属国になれば、もっとひどい目に遭うこともわかっているし、何より、ウクライナという祖国の存在が歴史から消されることがわかっているからだ。祖国のためにどこまでやるかを決める「資格」があるのはその国の国民だけだ。

今生きている自分たちだけではなく、祖先が営々と守ってきた国、そして、それを子々孫々に受け継ぐ義務があると感じるからこそ戦うのではないか。自分の命だけが大事なのなら、さっさと逃げればいい。でも、そう思わない人もいる。結構多く。だから国がなりたっている。そういう精神のない国は弱肉強食の歴史の中でもう既に歴史上からきっと消えている。

自分が帰属するものが、まずは自分自身であり、家族であり、地域であるとすれば、その器となるのは、国である。それは近代国家が成立してからの話で、昔昔は「国」なんてあってなかったよ、命あってのものだねだよ、という人もいると思うし、それが間違っているというつもりもない。特攻隊で日本のために自己を進んで犠牲にしてくれた若者たちに心からの感謝と敬意を表するとともに、そんな風に命を使うこと自体はもし自分が指導者なら、二度とさせないと心に誓っている。

ただ、「国」というものの考え方の違いについては、それはもう価値観の違いとしかいいようがない。でも、ウクライナの人たちの多くは、多分、ウクライナという国そのものを愛しているから戦っているのだ、と思う。

それが、「愛国心」というものなのではないか。

違和感の正体は、「祖国」とか「愛国心」というものに対する考え方の違いなのだろう。


編集部より:このブログは参議院議員、松川るい氏(自由民主党、大阪選挙区)の公式ブログ 2022年4月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は、「松川るいが行く!」をご覧ください。