先日、NHKのインタビューに応えて、ある地方自治体の少額随意契約に際して同じ業者が他の業者の見積もりを持参していたケースが多数に上った、という問題についてコメントした(NHKウェブニュース「伊賀市の随意契約工事うち8割以上で不適切な処理が明らかに」)。
法令上は、競争入札が原則で随意契約が例外だ。緊急性が高い案件や特許等の事情によって複数の業者を比較できない、その余裕がない場合もあるが、発注金額が安いという理由で認められる随意契約の場合は、複数の業者の比較は可能であるし、その余裕もある。そこで複数の業者から見積もりをとってきて比較し、安い方を採用するという方法がとられる。これを「見積もり合わせ」という。
仕組みとしては最低価格自動落札方式の競争入札と同様だが、「公告→入札」のプロセスがない簡易な手法であり、時間的にも(行政)コスト的にも負担が少ない方法だ。金額が小さいのでコストはかけられないが競争性は担保したいという要請に応えるもので、それ自体は合理的な仕組みである。法令やルールもそのように定めている。
同じ業者が他の業者の見積もりを持参していたというのであれば、それが手続上問題であることについては疑いがない。価格の安さを競い合わせるのにもかかわらず、ある業者が競い合いの関係にある他の業者の価格が記載された書類を保有しているというのであれば、競争制限の疑いが生じるのは当たり前だ。発注者である行政が問題意識を持たないのは不可解だ、というのが一般の感覚だろう。
なぜこのような事態が生じ、なぜ行政はこれを放置してしまうのだろうか。冒頭のニュースでは、「複数の見積もりを取得する手間を省くなどの目的で、慣例的に行われていた」と報じているが、この効率化は競争制限のリスクに見合うのかと批判されるのは当然だ。
ポイントの一つは、これが文房具やコピー用紙、あるいはPCのような物品の調達ではなく、工事だということである。物品の調達、それも既製品の調達の場合、それを扱っている業者に問い合わせれば、すぐに値段が伝えられるだろう。見積もりに要する時間、コストがほとんどかからないからだ。しかし工事の場合、現場があるので、「いくらか」と問い合わせがくれば、予備的な調査をしなければならない。もちろんかかる手間暇はさまざまだろうが、「見積もりのためのコストがそれなりにかかる」という点が重要だ。
例えば、ある学校の一部施設が壊れたので工事して欲しいという要請がきたとき、目の前に工務店があった場合、そこに発注するのが簡便だ。ただ「見積もりを三つとる」というルールがあれば、その工務店の他に周辺の業者を探してきて依頼をかける。その業者は最初の業者に任せればいいと考えていれば、拒否するかもしれない。もちろん、その他の受注状況にもよるだろう。また複数の見積もりというルールがわかっていれば、自分が受注するとは限らない、と考えるだろう。発注者としては断られ続けるかもしれない。もしかしたら現場に一番近いところが引き受けるという業界の慣行があるかもしれない(それは十分にあるだろう。裏を返せば、断れないという事情もあるのだろう)。遠くになればなるほど、可能性は低くなる。
結局、行政は複数の見積もりをとることができず、強行すればルールに反してしまうことになる。その結果、どうなるか。業者側の事情も考えれば、ある程度は想像がつくだろう。
見積もりにはコストがかかる。そして見積もりを出す、出さないは業者の自由だ。それなのに競争のルールは硬直的である。だから歪んだコンプライアンスになる。おそらく、行政側の勝手なエクスキューズは、「見積もりは複数とった」「中身は操作して(させて)いない」「だからルール通り」というものだろう。しかし、「何のためにそうするのか」という趣旨がそこでは意識されていない。「かけるコストに見合わない」というのが本音なのだろうが、本音を正面からぶつけるよりも形を整える方に傾いてしまう。
表面を繕うだけのコンプライアンスは随意契約では多いように思われる。ずっと昔の話であるが、ある物品の発注に際し、「3割引にしてもらえたから」という理由である業者と随意契約を結んでいたが、そもそもその業者は市場価格よりも5割高い値段で提示し、そこから3割引いただけの話だ、と聞いて呆れたことがある。
その業者と癒着しているというよりも、トータルでのコストを考えれば使い勝手のよい業者の方がよいというだけのことかもしれないが、そうであればそこを意識した発注の方法を考えればよいが、そうはならない。説明が面倒だからだ。結局、形だけ整えるというコンプライアンスの対応になる。問題視されればその場限りの対応で、根本的な治療にはならない。そういうケースが多いのではなかろうか。
「何かをすれば(させれば)コストがかかる」という(当たり前の)意識をきちんと持つこと、これが改革の出発点なのだと思う。