橋下徹氏に見る憲法学通説の病理~その4:逃走への執着編~

篠田 英朗

ゼレンスキー大統領FBより

橋下徹氏によるウクライナのゼレンスキー大統領への批判は、当初の「なぜ降伏しないのか」から、最近は「なぜ市民を逃がさなかったのか」に変わってきているようだ。状況が変化したためだろう。ウクライナ軍が首都キーウを攻略しようとしたロシア軍を撃退し、同時に占領地域におけるロシア軍による一般市民への残虐行為が明らかになった。この状況変化に伴って、当初の「降伏」論が、「逃走」論に変わったものと思われる。

この「逃走」論の妥当性について考えるために、橋下氏の言説を分析する際に私が参照してきている司法試験対策予備校の伊藤塾の伊藤真氏の著作を見てみよう(伊藤真・神原元・布施祐仁『9条の挑戦:非軍事中立戦略のリアリズム』[2018年]伊藤真「第1章 憲法9条の防衛戦略」)。

私は攻められたら戦わずに白旗をあげるべきだと考えています。・・・私は国家が国を守る ために戦うことによってかえって国民の被害が拡大すると考えています。・・・反撃して大きな被害を招くよりも武力による反撃をせずに白旗をあげるほうが、被害が少なくて済む という判断です。

伊藤氏が、攻められたら必ず白旗をあげて降伏することを勧めるのは、戦うと「国民の被害が拡大する」と想定されるためである。言うまでもなく、ウクライナの占領地域におけるロシア軍の残虐行為が白日の下にさらされた今日では、人命だけを考えても、この伊藤氏の主張の妥当性は疑わしくなってしまった。さらに国家の存在など、人命以外の価値の存在も考えれば、伊藤氏の主張の信ぴょう性はさらに減る。

これは私が戦争初期に書いた文章ですでに指摘していたことである。

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橋下氏が怒りを顕わにして、ツィッター上での篠田への攻撃を開始した契機となった文章である。

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橋下氏にとっては、今さら篠田のような学者の存在価値を認めることなどは、絶対にできない相談だろう。したがって橋下氏は、「降伏」論はなかったことにして、別の話に移行していかなければならない。

どうすればいいか。そこで浮上してきたのが、「逃走」論である。

伊藤氏の説明で顕著なのは、侵略戦争にさらされたときに政策決定者が行うべきなのは、予測される人命損失数の算術的計算だ、という発想方法である。伊藤氏が降伏を勧めるのは、失われる人命の数が、戦闘を行う場合よりも常に少ない、と仮定しているからである。したがって、降伏が妥当ではなくなるのは、降伏しなかった場合に失われる人命の数が、降伏した場合に失われる人命の数を下回る場合だけだ、ということになる。伊藤氏や橋下氏にしてみれば、そのような(彼らにとってはいわば)「例外的な」事態であることが証明されれば、降伏しなくてもいいぞと譲歩してもいいことになる。そこで橋下氏は、ゼレンスキー大統領に、降伏しないことでより多くの人命が救われたことの証明を求める。

当初は、橋下氏は、大挙して侵略してきたロシア軍の前にしてウクライナは反撃すれば「大きな被害を招く」と考えて、降伏すべきことを主張していた。ところが橋下氏の主張に、ゼレンスキー大統領は従わなかった。そのうちに状況が変わってしまった。そこで橋下氏は主張を変えた。降伏せず、戦い続けるのであれば、せめて一般市民を逃がしてやるべきだったのに、なぜそうしなかったのか、と主張し始めた。ロシア軍の残虐行為の責任の一端を、自らの降伏の勧めに従わなかったゼレンスキー大統領にも背負わせよう、という主張である。もしゼレンスキー大統領がこの主張に対応した証明ができなければ、篠田に怒りを顕わにした橋下氏自身の立場も守れる。

「逃走」論の主張において、橋下氏が繰り返し述べているのは、開戦当初、ゼレンスキー大統領が市民が国外に逃げるのを禁止した、それが問題だ、といったことである。本当だろうか。

時系列を追いながら、実際に起こったことを確認してみよう。2月24日の開戦の直前である23日、ゼレンスキー大統領は予備役の招集をかけた。言うまでもなく、ロシア軍の攻撃が間近に迫っている可能性を鑑みてのことであった。その際、ゼレンスキー大統領は、国民総動員令はまだ出さない、と述べていた。まだその段階ではない、と判断したためである。そのような判断をせよ、という圧力にさらされていたにもかかわらず、あえて自重していたくらいだった

そもそもウクライナでは、ゼレンスキー大統領が就任するだいぶ前の2014年の危機の際に、国家総動員体制の整備が必要だ、という議論が巻き起こっていた。人的資源において圧倒的な優位にあるロシアによる侵略の脅威にさらされているウクライナを防衛するためには、そのような体制をとることが不可避だ、という厳しい認識に基づく議論であった

国家総動員体制は、ゼレンスキーの突然の思いつきで導入されたものではない。あるいは全体主義者たちのイデオロギー的野望で導入されたものでもない。クリミア併合・東部地域の分離主義運動の背景にロシアの侵略の脅威を見たウクライナ人たちが、ぎりぎりの状況で検討し始めた措置である。ゼレンスキー大統領は、その8年後に、まぎれもない危機の到来にあたって、この措置を導入する際に大統領の職にあったに過ぎない。

2月24日に実際にロシア軍による攻撃が始まると、ウクライナ軍のみならず国家全体が戦争体制に入った。ゼレンスキー大統領は、ここで初めて、手控えていた国民総動員令を出した。その目的は、兵力においてロシア軍に劣るウクライナ軍の不足を補いつつ、戦時体制であらゆる場面で必要になる人的資源を国家が計画的に確保して配分していくことだ。これにともなって国境管理庁が動員対象者の出国を認めない措置をとることになった。「逃がさない」ことが目的の措置がとられたのではなく、関係省庁が、国民総動員令の実施に矛盾する措置を取らないようにし始めただけだ。

そもそも攻撃を受けるまで発令を控えていたわけだから、ゼレンスキー大統領にとっても決して望んだ決定ではなかった。しかしウクライナを防衛するために必要な人員を確保するために、一度広範な層の国民を動員する体制を宣言しておく必要がある、と開戦にあたって判断した。実際に必要な人員は、軍関係組織等が順次決定していく

いきなり全員が戦場に送り込まれるわけではない。事実、4月になった今もまだほとんどが実際には動員されていないと言われる。しかし緊急事態において、志願者を募ったり名簿を作り直したりしている暇はない。敵の侵略攻撃によって戦時体制に突入したことを受けて、人員を確保する体制を即時に導入しておく必要があった。そこでまず90日間の時限付きで、非常事態に対応する措置を導入した

この措置が、日本で「ウクライナの18~60歳男性は出国を禁止された」という点を強調されて報道された。そのため、橋下氏は、ウクライナの全国民が武器を与えられて一斉にロシア軍に攻め込んでいくような姿を思い浮かべたのだろう。「戦う一択」なる謎の概念を振り回す一連のゼレンスキー大統領批判は、日本の報道を見た時に橋下氏が受けた個人的な印象から生まれたものだと思われる。

日本には徴兵制がない。それを裏付ける法律もない。したがって国民に動員令がかかるという事態が起こりえない。日本人が知っているのは、悲惨な結末を迎えた太平洋戦争中の国家総動員令だけだ。そのため多くの日本人が、そのような重たい判断をゼレンスキー大統領が開戦初日に迅速に行ったことに衝撃を受けた。特に橋下氏のような50歳代の中年男性が、自分の年齢でも総動員令の対象になることに強い衝撃を受けたかもしれないことは、想像するに難くない。この頃、橋下氏は「俺なら逃げる」という内容のツィッターを連続投稿している。

SNS上で、橋下氏が執拗にゼレンスキー大統領の批判をするのは嫉妬しているからではないか、というツィートが話題になったことがある。そうかもしれないが、私はちょっと異なるニュアンスも感じている。橋下氏は、50歳代の中年男性にまでを、総動員令の対象にしたゼレンスキー大統領を、その一点において、絶対に否定したいのではないか。橋下氏は、逃げたいのである。まず自分が、逃げたいのである。そのためこの問題に異様な感情移入をする自分を止められなくなるのである。

しかしほとんどのウクライナ人は、橋下氏とは違った。2014年から一貫して戦時体制にあり、戦争に対応する体制を整えていた。国民総動員令は、悲しい事態だが、ウクライナでは法律違反ではないはずだ。ゼレンスキー大統領は、戦争が始めれば導入せざるをえないと計画していた措置を、戦争が始まったときに導入した、ということである。

ウクライナ憲法第83条は、大統領に、非常事態に戒厳令を敷く権限を付与している。大統領は、国家元首であり、軍の最高司令官であり、国家安全保障・防衛委員会の議長であり、同委員会の決定の公布者である(83、102、106、107条)。

欧州では、フランス革命以降、国民皆兵の伝統がある。国民国家の創設にあたって国民皆兵は正当であるという考えが、根深く存在している。日本の憲法学通説を地球の絶対真理と信じている人々にとっては、ウクライナの法体系は異様に映るかもしれない。だが、これは少なくともヨーロッパの国民国家の思想の伝統では、それほど異様ではない。民主主義国だからこそ、国民全員で国家を守る義務がある、という思想が根強いのだ。

アジアでも、韓国のように緊急事態が日常生活と併存しているような社会では、徴兵制が存在する。徴兵制があることを、あるいは緊急事態に特別な動員体制を導入することを、ゼレンスキー大統領の個人的な性癖に還元して理解しようとするのは、あまりにもガラパゴスな思い込みである。

日本の憲法学者の多くは、憲法18条の「奴隷的拘束・苦役の禁止」によって、日本では徴兵制が禁じられると考える。GHQ起草者は想像もできなかったガラパゴスな文言解釈である。まあ、ここではその解釈の是非は問わない。百歩譲って、この日本の憲法学者の日本国憲法解釈を採用するとしよう。しかし、それでも、「ゼレンスキー大統領は日本国憲法第18条に違反している」と叫んでみることには、何も意味はない。どんなに橋下氏が悔しがろうと、仕方がない。

国際法はどうか。国際人権法の中核を占める「市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)」は、第4条1項で、「国民の生存を脅かす公の緊急事態の場合においてその緊急事態の存在が公式に宣言されているときは、この規約の締約国は、事態の緊急性が真に必要とする限度において、この規約に基づく義務に違反する措置をとることができる。」と定め、「公の緊急事態」における人権規定の一定の制約を認めている。ただし同条2項は、「公の緊急事態」においても制約してはいけない条項を列挙し、いかなる場合にも「逸脱不可能」な中核的な人権規範の存在も明示している。生命に対する権利の保障、拷問・奴隷・不当拘禁の禁止、罪刑法定主義、法の前の平等、思想・良心・宗教の自由の保障である。

この国際人権法の体系にそって考えると、ロシアの侵略戦争にさらされた際に国民総動員令をかけることが、国際法違反だとは言えない。橋下氏のような者まで潜在的な動員対象になったからと言って、いきなり生命を奪われるわけではなく、そもそも戦場に送り込まれる可能性も低いのだから、どんなに橋下氏が悔しがろうとも、仕方がない。

橋下徹氏は50歳代の中年男性である。学者の私のような社会的に無価値な50歳代の人間はともかく、橋下氏のような高位の公職をお持ちだった元権力者の方が50歳代の中年男性であることを最大限に考慮すれば、ゼレンスキー大統領は、18~60歳ではなく、せめて18~40歳くらいにして、橋下氏の同世代の者も逃亡していい対象にするべきだった、という主張も成り立つのかもしれない。

だがそこはより具体的な政策論だ。それくらいに人が足りないのであれば、この政策が破綻しているとまでは言えない。必要な人間の数が足りなければ、結局は逃げることができる人間の数も減る。敵を食い止めたる戦闘行為に従事する者だけでなく、その他の緊急事態対応の職務に当たる者がいなければ、逃げることができたはずの者も逃げることができない。

ウクライナからは国外に大阪市の人口の1.6倍以上の450万人以上の難民が流出し、710万人以上の国内避難民をあわせると大阪府の人口の1.3倍以上の1160万人である。

Situation Ukraine Refugee Situation
Update on IDP Figures in Ukraine 5 April 2022 [EN/UK] - Ukraine
Situation Report in English on Ukraine and 1 other country about Protection and Human Rights; published on 5 Apr 2022 by IOM, OCHA and 4count other organization...

これだけの数の人間の避難が、わずか1.5カ月で発生している。ロシア軍の攻撃を防ぐ防衛措置のみならず、その他の環境整備に相当な労力が必要である。

橋下氏くらいの大人物になると「たったのこれだけしか避難させてないのか、これじゃ誰も避難させていないに等しい」と言って、ゼレンスキー大統領を叱責できるのかもしれない。しかし、客観的には、そんな叱責は、現実離れしていると評さざるを得ない。

橋下氏は、あるいは自分でも気づいていないのかもしれないが、日本の憲法学通説の色眼鏡で国際情勢を語り、他国の大統領を叱責している。日本国内の学者の知能の低さを罵倒しているくらいであれば、社会的に無害である。しかしウクライナ情勢それ自体を、隠れた憲法学通説信奉者として、歪曲した形で論じ続けるのは、社会的に有害である。

私が、一連の橋下徹氏に関する記事を書いているのは、あくまでもそのことを痛切に感じているがゆえである。橋下氏が、学者などとは比較の対象にできない偉大な人物であること自体には、何も疑問を持っていない。