日本人メジャーリーガーへの道を開けたパイオニア

鎌田 慈央

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活気あふれる野球界

先般、コロナ、戦争、地震など人災と共に天災が絶えない日々が続いている。そのような暗いご時世の中で明るいニュースを届けてくれているのが野球界である。

先日、千葉ロッテ・マリーンズの佐々木朗希投手が完全試合を達成した。完全試合とは投手が塁上にランナーを一人も出さずに完封することである。高校時代僭越ながら控え投手としてプレーしていた筆者としては到底達成不可能な偉業である。

日本プロ野球の完全試合の達成としては元巨人軍の槙原投手以来29年ぶりの快挙である。佐々木投手にとってはそれに加えて13連続奪三振の日本記録、1試合で19奪三振の日本タイ記録など記録尽くしの投球内容となった。

また、海を隔てたメジャーリーグでも日本人選手の活躍の報が聞こえてくる。昨年のリーグMVPであり、二刀流で有名な大谷翔平選手は開幕投手として開幕戦に登板し、パドレスのダルビッシュ有投手も同様に自チームの開幕投手としての大役を担った。両者共に勝ち星は付かなかったが、日本人投手が二人も野球界の最高峰であるMLBで開幕投手を務めることは、日本野球界のレベルの高さを表すとともに、日本人として誇らしいことでもある。

打者の方を見ても、パイレーツの筒香嘉智選手、カブスの鈴木誠也選手は連日のように安打を放ち、チームに貢献しており、幸先の良いスタートを切っている。また、鈴木選手に至っては11日にホームランも飛び出しており、メジャーデビューの年となる今期は飛躍が期待される。

このように現代では日本人がメジャーリーグで活躍することが当たり前となっている。しかし、その当たり前を作ったのは逆境の中で1947年4月15日にグランドに立った男のおかげである。

全ての選手が「42」の背番号を着ける日

2004年以降、MLBでは4月15日はジャッキー・ロビンソンデーとして祝われている。この日は近代MLBとしては初めて有色人種のメジャーリーガーであったジャッキー・ロビンソン選手の功績を祝福する日である。その日、全選手は現在は球界全体で永久欠番扱いされているロビンソンの背番号であった「42」を着けて試合に出る。

試合に出ること自体は大した出来事では無いように思えるかもしれないが、ロビンソンが現役だった頃の時代背景を考慮すれば、彼の試合に出るという決断は文字通り命を懸けたことであったことが分かる。

ジャッキー・ロビンソン(1954年)
出典:Wikipedia

当時のアメリカでは「隔離すれども平等」の原則の下、厳しい人種隔離政策が実施されており、黒人とともにアジア系を含めた有色人種は厳しく差別されていた。

黒人は司法の保護を受けることができないとの先例を出したドレッド・スコット判決は未だに顕在であり、南部で黒人が何人リンチされようとも、議会で頑強な抵抗勢力となっていた南部選出議員のせいで現状は一向に変わる気配は無かった。

イコールジャスティス研究所によれば、1877年から1950年の間で4000人超の黒人が南部で白人至上主義者に暗殺されている。大体の場合、殺人者たちは同じく白人至上主義者の判事たちの判断で、信じられない程の軽い刑で罪を免れる。

1964年までに上記の南部の抵抗勢力の一員であったリンドン・ジョンソン大統領のリーダーシップにより一連の公民権法が立法化し、人種隔離は違法とされたが、それはロビンソンのメジャーデビューから16年、彼の引退からさらに7年待たなけれなならなかった。

ロビンソンが初めて試合に出場した時、観客席は白人と有色人種で分断されており、肌の黒さをヤジる野次馬の声もバッターボックスから聞こえたはずである。連日のように殺害予告も受けていたという描写も彼の自伝的映画でも描かれている。

しかし、人種差別に負けずロビンソンはプレーをした。それだけではなく、結果を残し、肌の色が野球選手としての能力に全く関係が無いことを証明した。

ジャッキー・ロビンソンこそ真のパイオニア

何を始めるにしても、初めて何かをやるには勇気がいる。言わずもがな、命の危険を伴うのであれば、挑戦することさえもはばかれる。しかし、ロビンソンは挑戦した。

彼が命の危険を感じながらもプレーを続けたおかげで、メジャーリーグは人種の壁を乗り越え、肌の色に関わらず、ラテンアメリカ、アジアなどから多くの選手を集めている。日本人メジャーリーガーはロビンソンの勇気のおかげで、今日のように活躍する機会を得ているのである。

そのような彼の偉業を実感しながら4月15日はロビンソンの功績を讃える日としたい。