前稿「米最高裁に初の黒人女性判事誕生」で紹介したジャクソン氏の任命により、6人目の女性判事が誕生した(表参照)。
これまでの5人の女性判事はもちろん、男性も含めた同時代の最高裁判事で最も人気があったのは、間違いなく2人目の女性判事、ルース・ベイダー・ギンズバーグ氏。
理由は翻訳が最近出版された共著『ルース・ベイダー・ギンズバーグ~アメリカを変えた女性』(以下、「共著」)のとおり、アメリカを変えたから。
どのように変えたかをこの本や映画「ビリーブ 未来への大逆転」(以下、「ビリーブ」)などをもとに紹介する。
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首席で卒業したコーネル大学で知り合い結婚した夫の後を追って、ハーバード大ロースクールに入学した。9人の女子学生が入学したが、女性用のトイレはなかった。新入生歓迎ディナーでは自己紹介する際に9人の男子学生の機会を奪ってまで入学してきた理由を述べるようにいわれた。
入学後、夫がガンで倒れるという不幸に見舞われ、看病しながら家事、育児をこなし、夫の授業にも出席してノートを取った。夫がガンを克服して卒業、ニューヨークの法律事務所に就職すると、彼女もコロンビア大ロースクールに転校、首席で卒業し、法律事務所に職を求めたところ、前稿で紹介した初代女性判事のオコナー氏同様、秘書扱いされた。
ある法律事務所での面接で何社面接を受けたかの質問に12社と答えると、「女性、ユダヤ系、母親でよく面接までこぎつけたね」といわれ、秘書の面接と間違えられたと述べている。結局、ラトガース大学に辞めた黒人教授の後任に「黒人候補がいないから女性でもいい」といわれて教職に就いた。
「男性にも不利」訴え勝訴
弁護士の仕事を希望していたギンズバーグ氏に税法専門の夫が、男性が差別された案件を持ってきた。母親を介護する男性のヘルパー代の税控除を認めないのは、法の下の平等を保障した憲法に違反すると主張、控訴裁判所で逆転勝訴した(1972年)。その後、1980年に控訴裁判所判事に任命されるまで、男女平等をめぐる数多くの裁判にかかわり、最高裁でも5件の勝訴判決を勝ち取った。
1993年に最高裁入りしてからもバージニア軍事学校の女性の入学禁止を違憲とした判決の法廷意見を執筆したが、最高裁では彼女の書いた反対意見がリベラル派の関心をひいた。
2007年、最高裁は企業で同じ立場にある男女間の賃金格差を違憲とする原告の訴えを手続き上の問題で却下したが、ギンズバーグ氏は議会に立法措置を促す反対意見を法廷で朗読、2年後に法改正を実現させた。
このため、リベラル派はギンズバーグ氏を女性差別に立ち向かった騎士としてアイコン化、2018年にビリーブと「RBG 最強の85歳」(RBGは名前の頭文字)の2本の映画が立て続けに公開されたことも人気に拍車を掛け、TシャツやマグカップなどのRBGグッズまで登場するなどアイドルなみの人気を集めた。
生涯現役を貫く
ギンズバーグ氏は2020年9月18日、3度目のガンで87歳の生涯を閉じた。その日、ワシントンの最高裁判所前には追悼のため多くの市民が訪れ、彼女の棺は議事堂に安置された。それは女性初の快挙だったことからも、残した功績の偉大さがうかがわれる。
拙稿「米最高裁、初の黒人女性判事誕生へ向けブライヤー判事退任」のとおり最高裁判事に定年はない。このため、辞任するのは自ら辞めるか亡くなる以外ない。バイデン氏に大統領選での公約を実現する機会を与えるため勇退したブライヤー判事同様、ギンズバーグ判事にもオバマ大統領の在任中(2009~2017年)にリベラルな判事を選ぶ機会を与えるべく勇退を期待する声もあった。しかし、彼女はまだやり残した仕事があると言って、生涯現役を貫いた。
最愛の夫が死亡した翌朝も法廷で意見を読み上げるため最高裁に出廷。共著もガンと闘いながら執筆し、亡くなる3週間前に脱稿した。こうした事例からもやり残した仕事を完遂しようとした彼女の熱意が読み取れる。
共著者もギンズバーグ氏の死後、執筆した「あとがき」でギンズバーグ氏のオフィスの壁にかけられていた申命記の一節、
「裁判官よ、汝正義を追求すべし」
を紹介しつつ、この使命感が彼女の原動力だったと指摘している。