キリル1世の「ルースキー・ミール」

会って話すことが難しくなったという。会うことでマイナスの影響が出ることを恐れているのかもしれない。ローマ教皇フランシスコとロシア正教総主教キリル1世との会談の話だ。

モスクワ総主教キリル1世(2022年3月10日、世界教会協議会(WCC)公式サイトから)

両指導者は2016年にキューバで歴史的な会談を実現しているから、最初の会談ではないが、キリル1世はプーチン大統領に直接話すことができる数少ない人物だけに、プーチン氏に戦争の停止を進言してほしい、とフランシスコ教皇は考えていたのかもしれない。しかし、キリル1世がプーチン氏の戦争を支援している。話し合って変わることなどは期待できないだけではなく、ロシア側のプロパガンダに利用される危険性が排除できないから、「会わないほうが無難だ」という判断がバチカン側に最終的に働いたのだろう。

バチカンのナンバー2、国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿は今月8日、フランシスコ教皇とキリル1世の首脳会談の可能性を「排除できない」と示唆し、首脳会談は「中立な場所」と述べていた。イタリア通信社ANSAは4月11日、「ローマ教皇フランシスコはキリル1世と今年6月にエルサレムで会うことができるかもしれない。フランシスコ教皇は6月12日から13日にレバノンを2日間訪問した後、同月14日朝にヨルダンのアンマンからエルサレムに到着する。教皇はそこでキリル1世と会い、ウクライナ戦争について話すことができる」といった憶測記事を流した。

フランシスコ教皇には「キーウ訪問」と「キリル1世との首脳会談」の2件の緊急要件がある。前者の場合、教皇の健康状況(膝,腰痛)が障害となる。バチカンとして教皇のキーウ訪問前に、バチカンの外相ポール・リチャード・ギャラガー大司教が近い将来キーウを訪問し、教皇訪問の下準備をする考えではないか。

一方、教皇とキリル1世との会談の場合、会談は非常に政治的な様相を帯びてくる。キリル1世自身はプーチン大統領のウクライナ戦争を支持、「ウクライナに対するロシアの戦争は西洋の悪に対する善の形而上学的闘争だ」と強調してきた指導者だ。それに対し、東方正教会のコンスタンディヌーポリ総主教、バルソロメオス1世は、「モスクワ総主教キリル1世の態度に非常に悲しんでいる」と述べ、ジュネーブに本部を置く世界教会協議会(WCC)では、「ロシア正教会をWCCメンバーから追放すべきだ」といった声が高まってきた。世界の正教会でもキリル1世の戦争支持に強い反発が出てきている。そのような時、キリル1世と首脳会をしても成果が期待できないばかりか、誤解される危険性も出てくる、といった懸念は当然考えられる。

フランシスコ教皇はアルゼンチンの日刊紙「ラ・ナシオン」とのインタビューの中で、「この時点で私たち2人の間の会合が多くの混乱を引き起こす可能性がある」と述べ、キリル1世との2回目の会談をキャンセルしたことを明らかにした。同時に、ウクライナ戦争の停戦調停のためには、「バチカンは休むことはない。あらゆる機会を模索している」と強調している。

ロシア軍のウクライナ南東部マリウポリの廃墟化、ブチャの虐殺など民間人を大量に殺害する非情な戦争に世界は衝撃を受けている。欧州では「戦争犯罪を黙認するプーチン氏との対面会談はもはや無意味だ」という声が強い。同じように、「ウクライナ戦争を形而上的論争と考えるロシア正教の最高指導者キリル1世との対面会談からは何も期待できない」といった声が世界の正教会、キリスト教会関係者から聞かれ出してきた。そしてフランシスコ教皇も「この時期の会談は……」という理由から会談計画を中断したわけだ。プーチン氏ばかりか、キリル1世も孤立化してきたわけだ。

プーチン氏の思想世界はこのコラム欄でも度々論じてきた(「プーチン氏は聖ウラジーミルの転生?」2022年3月28日参考、「プーチン氏に影響与えた思想家たち」(2022年4月16日参考)。今回はキリル1世の世界を少し覗いてみる。キリル1世はロシアの敵対者を「悪の勢力」と呼び、ロシア兵士には戦うように呼びかけてきた。そのためたキリスト教神学界からも厳しい批判が飛び出し、神学者ウルリッヒ・ケルトナー氏は「福音を裏切っている」とキリル1世を非難している。

インスブルック大学宗教社会学のクリスティーナ・ストックル教授は、「ロシアのアイデンティティと受け取られている概念『Russki mir』(ロシアの世界)はウクライナ戦争を理解する上で重要だ」と諭す。「ルースキー・ミール」は文化的概念であり、ロシア語、文学、ロシア正教会が特別な社会的結合力を持つ文明空間を意味する。「ルースキー・ミール」の空間は通常、神聖なキリスト教の空間、狭義にはロシア正教会の空間を意味するという(「オーストリア国営放送」2022年4月8日参考)

クリミア半島はロシア正教会の起源と見なされているから、ウクライナはモスクワ総主教区の中心的な役割を担っている。「キーウ大公国」のウラジミール王子は西暦988年、キリスト教に改宗し、ロシアをキリスト教化した人物だ。キリル1世はウクライナとロシアが教会法に基づいて連携していると主張し、ウクライナの首都キーウは“エルサレム”だという。ロシア正教会はそこから誕生したのだから、その歴史的、精神的繋がりを捨て去ることはできない、という論理になる。

汎スラブ主義、反近代的保守主義、ユーラシア主義を掲げるプーチン氏の“プーチン主義”(パリ生まれロシア系哲学者ミシェル・エルチャニノフ氏)とキリル1世の「ルースキー・ミール」の世界が結託し、ウクライナ戦争に駆り立てている、といえるかもしれない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年4月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。