岸田政権高支持率の不思議をリーダーシップから考える

原油価格・物価高騰等に関する関係閣僚会議のまとめを行う岸田首相
出典:首相官邸

高止まりする支持率の不思議:「隠れ岸田?」

岸田内閣の支持率上昇が止まらない。

今月22~24日に行われた日経新聞とテレ東の世論調査によれば、内閣支持率は64%に上がったそうだ。

政権発足から半年が経とうかという3月末の前回調査の際に内閣支持率61%という数字を見て驚愕したので、今回は、その時ほど驚いたわけではないが、しかし、謎は深まるばかりである。どうして、こんなに支持率が高いのか、しかも上がり続けるのか、ということだ。

仕事柄、リーダーシップについての講演をすることが多いので、話の導入として「岸田政権の支持率が高いのはどうしてか?」と聴衆に問いかけることがしばしばあるが、皆さん、一様に首をひねることが多い。

それもそのはずだ。リーダーシップの講演や研修の場、ということを差し引いて考えても(※私は特に、リーダーシップの本来の訳語は、指導力ではなく始動力だ、と強調しているのでなおさら)、岸田総理・岸田政権のこれといった成果、というのは見えにくい。政治行政ウォッチャーの私ですら首をひねりたくなる。

直前の菅政権と比較してみると、岸田政権の見かけ上のパフォーマンス(成果)の小ささはより如実に浮かび上がる。菅政権では、携帯電話料金値下げ、不妊治療の保険適用、そして国民的関心事であるコロナ対応としてのワクチン接種(河野大臣を指名して100万回/日を強行に実施)など、政権発足直後から矢継ぎ早に様々な改革案を打ち出し、強引とも言える形でそれを実現していった。

その点、岸田政権では、ワクチン接種推進担当大臣の名前すら、上記の講演などの際に聞いてみると答えられる者が少なく、気が付けば退場している次第である。ようやく50%を超えたという状況から判断して、接種率が向上して不要になったから、というわけでもない。

次々に改革案を打ち上げて実施して行った菅政権の内閣支持率は、コロナの感染拡大もあって初期の段階で急降下してしまい、以来、基本的に上がることはなかった(電撃的に辞任表明した後を除く)。岸田政権はその逆だ。

上記の研修時の受講生たちのように、表立って「岸田政権を評価するか」と聞かれると、誰もが成果を思い浮かべにくいので(次の質問として理由を聞かれると困るので)、イエス、とは言わない。否、言えない。しかし、世論調査をすると支持率が高い。

私はこれを、米国大統領選における「隠れトランプ」現象になぞらえて、「隠れ岸田」現象と勝手に呼んでいる。もちろん、トランプ氏と岸田氏のキャラクターは、恐らく真逆くらいに違う。ただ、「岸田さんを支持しますか?」と公の場で聞くと、支持しているとは答えづらい人が大半だが、その実、支持している人が多いという現象面だけみれば、「隠れトランプ」と同じ「隠れ岸田」状況が現出しているとも言える。

リーダーシップとマネジメント:不都合な真実

一般に、トランプ氏や菅氏のように、抵抗が大きくとも果断に何かをやり遂げて結果を出そうとする行為をリーダーシップ(始動力)と言い、岸田氏のように、前例やルールをしっかりと踏襲し、極力敵をつくらずに穏便にことを運び、まさに「聞く力」を発揮する行為をマネジメントと言う。

ここに日米の違いが如実に出ていると思う。つまり米国は、ちょっと引いてしまうくらいに何かをやる人(リーダー:始動者)を密かに支持する人が多いのに対し、日本では、ちょっと引いてしまうくらいに何もやらない人(マネジャー:運営者)を支持する人が多いわけだ。

国民性と言ってしまえば、それまでだが、これでこの国は本当に大丈夫だろうか。もちろん、正確には、国民性に加えて、タイミングの問題も大きいとは思う。

つまり、民主党政権からの「変革」を強調して色々なことを実行していった安倍政権、そして、先述のとおり、やはり何かを成し遂げようというその後の菅政権を約10年間にわたって経験し、日本国民は、リーダーシップ的アプローチに疲れてしまった(もしくは飽きてしまった)と言える。その後に、癒しのマネジメント型の岸田政権が登場してほっとしている、という面もあるかとは思う。裏側から言えば、また飽きてくれば、変革を志向するリーダーを求めるようになるとも考えられる。

しかし、本質的には、それこそ「和を以て貴しとなす」(十七条憲法)以来とも言える日本人の平和(争いを好まない)志向が前面に出てしまい、次々に起こる様々な事象に対して、受け身でしか対応しない(できない)岸田政権に、「まあ、それでいいんじゃない」とお墨付きを与えているのが日本国民であると思えなくもない。

しかし、「うまくまとめる」という運営力(マネジメント)の前提には、「何かを達成するために」という始動力(リーダーシップ)があるべきで、波風立てずに“まとめるために、まとめる”、というのは、順調で安定しているゲマインシャフト的共同体ならいざ知らず、色々な意味で尻に火がついているわが国の政権が本来取るべき姿勢ではないと思う。

日本ではマネジメントの大家として有名なP.ドラッカー氏であるが、私は、誤読されているような印象を受ける。つまり、一般にドラッカー氏の著作は、組織で部下をまとめたり、円滑に組織運営をする上で、読んだり学んだりすると良いという理解が日本にはあるように思うが、その実、ドラッカー氏は、マネジメント(運営力)以上に、その前提としてのリーダーシップ(変革力)を強調しているのではないかと感じる。

簡単に書けば、ドラッカーの説く「マネジメントの手法」(目標管理、コミュニケーション、マネジャーの在り方、組織のビジョンの明確化等々)は、あくまで「手段・手法」であって、その前提があるということだ。その前提とは、「リーダーシップの発揮のため」ということであり、私の言葉で言えば、「達成はやや無理」にも見える大切な「目的」を何とか実現するためにマネジメントがある、ということである。

広く読まれているドラッカーの『マネジメント』でも、パート1は、「マネジメントの使命」となっていて、企業とは「顧客の創造」のためにあり、そのための①マーケティング(割と想定されやすい既存などの顧客層を意識)や②イノベーション(想像を少し超えて攻める顧客の満足)が大事であるということがしつこいくらいに強調されている。

これら①②を生産的に実現するために、リソースの活用があるわけで、知識や人材、時間、組織、プロセスや製品の組み合わせなどを行うことこそがマネジメントということになる。つまり、前提としてのリーダーシップ(変革力、変革への意志)が死活的に重要であると言える。

1909年ウィーン生まれのドラッカーは、フランクフルト大に学び、イギリスではあのケインズの講義も受けたりしてマクロ経済を学んだそうだ。ナチスの虎の尾を踏んだこともあって、渡米して1950年にはニューヨーク大の教授になるわけだが、権威的・強権的政府、大きな政府というものに反感を持っていたようだ。

個々の企業がいかに立派な経営者を中心に、変革力を発揮して社会を創っていくか、という点に強い関心を持ったドラッカーは、1954年に有名な『現代の経営』を出し、60年代は、『創造する経営者』や『経営者の条件』など、私に言わせればリーダーシップに主軸をおいた著作を出す。そして70年代に、ある意味、満を持して有名な『マネジメント』を世に出す。

2005年に他界する少し前、2000年代初頭に、ドラッカーの研究者として名高い上田惇生氏と共にいわゆるドラッカー3部作(はじめて読むドラッカー)をまとめるが、その標題は、『プロフェッショナルの条件』『チェンジリーダーの条件』『イノベーターの条件』というものであった。マネジメント以前に、まず、リーダーシップが前提になることが見て取れる。

さて、岸田政権に話を戻そう。

この安定的支持率を維持し、うまく7月の参議院選挙を乗り切った後、岸田政権は何をするのであろうか。ウクライナ侵略や北朝鮮のミサイル発射など安全保障上の危機が世界のあちこちに出現し、資源価格や食料価格が高騰し、円安が極端に進行していく中、いつまでも「改革には疲れたから、少しぬるま湯でのんびりしようよ」というわけには行かない。

経営に重要なのは、能動的戦略ではなく、受け身だ(柔道のメタファー)との言説もあるが、確かに、岸田政権は、ロシアのウクライナ侵略をはじめ、様々な事象に、受け身的にはうまく対応しているとも言える。主に、官邸チームの対応力の高さによるものであろう。その類まれなるマネジメント力を活かすべく、どのようにこれからリーダーシップ(始動力)を発揮するのかが問われる。

意外性の発揮こそがリーダーシップの真骨頂とも言える。そもそも、「終わった人」感もあった岸田氏が政権を引き寄せて総理になれたのは、大幹事長として権勢を振るっていた「二階氏下ろし」ともいえる、大人しいはずの岸田氏とも思えない動き・言動であった。

今後の岸田政権のリーダーシップの発揮に期待したい。