プーチンを支持するロシアの国民性を考察する --- 小田切 尚登

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ロシアがウクライナを攻めた背景について大きく二つの見方がある。一つは、今回の行動はプーチン大統領の一存で決まったことであり、一般のロシア人は彼に隷属しているだけ、というもの。もう一つは、今回の件はプーチン一人の問題ではなく、ロシアの文化に根付いているもの、という見方だ。

後者が正しいと思う。いくらプーチンが独裁者として権力を握っているとはいえ、ロシア国民のウクライナ侵攻への支持がこれだけあるということは、政府の情報戦略の巧みさだけでは説明できない。国民の側にそれを受け入れる素地がない限り、今のような状況にはなっていないはずだ。

ではロシア国民の心の奥底に何が潜んでいるのだろうか?

チェコスロバキア出身で、後にフランスに亡命した作家・評論家ミラン・クンデラ(1929-)が1985年1月6日付の米ニューヨーク・タイムズ紙日曜版でロシアについて興味深いコメントをしている。彼はまずロシアを代表する文豪ドストエフスキーを痛烈に批判する。

ドストエフスキーで不愉快なのは彼の小説のもつ地域色である。そこでは全てが感情に転換してしまう。感情が価値や心理の地位に格上げされる。

クンデラは1968年のソ連軍によるチェコへの軍事介入(プラハの春)での体験を語る。

数千の戦車により田園は破壊され、将来の何世紀に渡って祖国はダメージを受けてしまった。チェコ政府のリーダーたちは捕まり・連れ去られる一方で、(ロシア)占領軍の士官は愛を宣言する。「私を理解してくれ」彼には侵略を非難する気は毛頭ない。他の皆もほぼ同様な語り口だった。これは別に彼らがサディスティックな喜びにふけっているからではない。全く違うアーキタイプ(深層)によるものだ。片思いの感情である。我々はチェコ人をこんなに愛しているのに、どうして彼らは我々のような生き方をしないのか?彼らに愛とは何かを伝えるために戦車を使わなければならないなんて、何と残念なことか!

「彼らに愛とは何かを伝えるために戦車を使わなければならない」とは、いくらなんでも論理が飛躍しすぎているように感じるところだ。しかしクンデラによればこれこそがロシア的な発想であるという。

ミラン・クンデラ(1980年)
出典:Wikipedia

今回のウクライナ侵攻についても同様な事が言える。ロシア人はウクライナ人に愛をもって接してきた。しかし、彼らはそれに対して裏切り行為を行ってきた、思い知らせてやる・・・こういう主張である。

ウクライナ人はロシア人にとって同胞であった。ソ連世代のプーチンにとって、ウクライナ人は同じソ連人である。互いに親類がたくさんいて、同じ音楽を聴いて同じ映画を見て育った。

ウクライナは独立した国家であるが、ロシア政府はウクライナ問題を国内問題を処理する部署で扱ってきた。

しかしウクライナ人はロシア語があるのにウクライナ語をしゃべったりしている。ロシアに反抗的な大統領を選んだのもロシア人の気持ちを踏みにじる行為である。さらにウクライナ正教会などというものも作ってしまった。(これはルーマニアやブルガリアなど、それぞれの国に独立した正教会があるのと同じで、本来問題はないはずだが、ロシアとしては心中穏やかではいられない。)

それまでウクライナの正教を仕切っていたロシア正教会モスクワ総主教庁は反発し、ウクライナ正教会を承認したコンスタンティノープル総主教庁との断交にまで発展した。ロシア正教会がウクライナ攻撃に熱心な理由の一つはここにある。

これらを自分勝手な屁理屈だと切り捨てることは簡単だ。しかし現実にそれが今の惨状につながっているとすれば、我々としても看過できない。

クンデラはこう言う。

感情を価値のレベルまで押し上げるようになった歴史は古く、おそらくはキリスト教がユダヤ教から分離した時にまで遡る。アウグスティヌスは言う「神を愛し、自分の意志で行動しなさい」。この有名な言葉が示しているのは、真理の判断基準が外部から内面に、すなわち主観という領域に移るということだ。愛という漠然とした感情(キリスト教の規範「神を愛せ」)が、法律の明晰性(ユダヤ教の規範)を駆逐し、モラルという曖昧な基準になる。

ロシア的な思考パターンはキリスト教の元来の姿に近いように見える。一方、西洋は近代を迎えて大きく変貌した。

ソルジェニーツィン(ソ連の反体制を代表する作家)はハーバード大学での有名なスピーチでこう述べている。

現在の西洋の危機はルネッサンス期に始まった。ロシアはそれとは別の文明である。ロシアにルネッサンスとその精神が欠けていることが、西洋とロシアの違いとなった。ロシア人のメンタリティが合理性と感情との間に異なる関係性を維持しているのはそのためだ。このバランス(あるいはアンバランス)により、我々はロシア人の魂の神秘を、すなわちその深淵さと残忍さを、知る事になる。

ヨーロッパ近代は合理主義すなわち理性(ロゴス)を基本とする考え方に立脚する。理性と感情は分離されるべきものとされる。しかしロシアでは、感情が合理性に優先される。客観的な理性というものはなく、主観が合理性という概念を乗り越えていく。

ロシアは一筋縄ではいかない国だとつくづく感じる。

小田切 尚登
音楽スペース「シンフォニー」主催。外資系投資銀行四社で働いたあと、ピアノ好きが高じて全7室の音楽家向けのスペースを経営。ライターとしても活動中。