ロシア・ウクライナ戦争をめぐる「通説」は本当なのか

野口 和彦

ロシアがウクライナに侵略してから、2か月以上が経過しました。開戦当初は、ロシアがウクライナを短期間で制圧する観測もありましたが、ロシア軍は西側の軍事支援を受けたウクライナ軍に苦戦しています。この戦争は泥沼の長期的な消耗戦になりそうな気配さえしてきました。

ロシアは5月9日の対独戦勝記念日に、ドンバス地方を制圧して「勝利宣言」をするであろうとか、この日を利用して「特別軍事作戦」を「宣戦布告」に切り替えるとか、対ウクライナ戦争への大量動員に踏み切るとか、さまざまな憶測が流れていましたが、ロシアのラブロフ外相は「第2次世界大戦の対ナチス・ドイツ勝利を祝う5月9日の戦勝記念日は、ウクライナにおける軍事作戦に何の関係もない」と発言をしています。これがプーチン大統領の本音であり、ロシア政府の公式な見解であるならば、多くの専門家にとって意外な展開ではないでしょうか。

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ロシア・ウクライナ戦争をめぐっては、世界中で数多くの専門家や学者、識者といわれる人たちが、メディアなどを通して、戦争の推移を解説したり、今後の展望について見解を述べたりしています。

そのような人たちの中で、私が特別に注目している政治学者がいます。ニューヨーク市立大学名誉教授で、コロンビア大学サルツマン戦争・平和研究所の上席研究スカラーを務めるラジャン・メノン氏です。彼は日本での知名度はありませんが、ロシア・ウクライナ戦争に関して、大衆や世論、メディアに迎合したり、感情に流されたりせずに、政治学者として説得的な発言をしてきました。わたしは、彼が学者として、あるべき1つの模範を示していると思っています。すなわち、それは政府や市民にとって不都合なことでも、正しい可能性があることは、キチンと述べるということです。

専門家たちは、ロシア・ウクライナ戦争からさまざまな教訓を引き出しており、当たり前のように受け取られるものもあります。こうした「通説」のように流布している言説に対して、メノン氏は以下のように厳しく批判しています。少し長くなりますが、重要な指摘なので、彼の発言を引用します。

ヨーロッパとアメリカがロシアの侵攻から得た結論は、ロシアはウクライナだけでなくヨーロッパ全体に恐ろしい脅威を与え、アメリカのヨーロッパでのプレゼンスを高めること、フィンランドやスウェーデンをNATOに加盟させること、防衛費を増やすことである。だか、ロシア軍がはるかに弱いウクライナ軍に苦戦していることを考えれば、これは正しい教訓なのだろうか。

ウクライナで闘うロシア軍についての主要な教訓は、GDPでロシアの5倍であり、先端技術基盤と多くの防衛産業を持つヨーロッパが、その多くの手段を用いて自分達を守ることであるべきではないのか。

問題は資源ではなく、政治的意志ということである。例えば、ドイツ軍は残念な状態である。この国は、ヨーロッパで最も豊かな国なのだ。ここでの結論は、NATOを解散することではなく、際限のない「負担分担」の話をヨーロッパへの負担の移行にすることなのである。地理的状況だけ見ても、ヨーロッパとロシアの距離は、アメリカとロシアの距離より近いのだから、ヨーロッパにおいてロシアに対抗することは、アメリカの義務というよりヨーロッパの責任の方が、ずっと重いのだ。

メノン氏が提示した論点について、ここで確認していきましょう。

第1に、ロシアはヨーロッパ全体に脅威を与える程、強大な修正主義的大国なのかということです。結論から先に申し上げると、プーチンがいかにロシア帝国を築き上げようとする野望を持っているとしても、ロシアはパワーで弱すぎて、それを実現することはほぼ不可能だということです。

リアリストのスティーヴン・ヴァン・エヴェラ教授(マサチューセッツ工科大学)は、「ロシアはあまりにも弱すぎるので、最弱の国家以外に拡張行動をとることができない。この国はアメリカ、NATOあるいは他のアメリカの同盟国に挑戦できる軍事的潜在力にまったく欠けている」と開戦前から的確な分析しています。

もちろん、今後、戦況の展開次第では、ロシアがNATO諸国と交戦する可能性は残りますが、現在までは、ロシア・ウクライナ戦争は「地域的な限定戦争」に留まっています。総合的なパワーでNATOがロシアを圧倒していることは、以前の記事で述べた通りです。NATOはロシアに対して、現役兵力で2倍、軍事費では5倍の優位を持っています。

第2に、ロシアの理不尽で非道な侵略を受けているウクライナを誰が支援しているのでしょうか。NATOストルテンベルグ事務総長は、ロシアのウクライナ侵攻が始まった翌日の同盟国のバーチャル首脳会談において、ロシアを強く非難すると共にウクライナへの支援をこう宣言していました。

(NATOの)指導者たちは、われわれが引き続きウクライナを支援しなければならないことも明らかにした。クレムリンはNATOとEUがわれわれのパートナー(ウクライナ)への支援をより少なくしようと試みている。そこでのわれわれの一致した答えは、もっと多く支援しなければならないということだ。

こうしたNATOのウクライナ支援への強力なコミットメントは、私たちに、ヨーロッパのNATO諸国がウクライナのロシアに対する抵抗を軍事的に支えているものと思わせます。しかしながら、ウクライナへの軍事支援はアメリカがほぼ単独で行っているのが実態であり、その他のNATO諸国の貢献は「言い訳」程度のものなのです。

出典:Statista

このグラフを見れば、アメリカのウクライナへの軍事支援が突出して多いのが一目瞭然です。さらに、バイデン政権は4兆3千億円の対ウクライナ追加支援を議会に求め、実現される見通しです。これに比べれば、その他のNATO諸国は「言動不一致」と批判されても、仕方ないでしょう。

メノン氏が批判するヨーロッパの主要国であるドイツは、外交的な圧力を受けて、ようやくゲパルト対空戦車をウクライナに送ることを決めましたが、軍事支援の総額はNATO諸国の中では6位にとどまっており、小国のエストニアより少ないのです。

プーチンが核戦力部隊に特別警戒態勢に入るよう命じた数日前、外務大臣であるジャン=イヴ・ル・ドリアン氏が「ウラジミール・プーチンは大西洋同盟が核同盟であることを理解しなければならない」と挑発ともとれる強気の発言をしたフランスは、EUをけん引する主要国にもかかわらず、上記のデータではランク外なのです。

ヨーロッパ諸国は、ロシアに対抗する責任をアメリカに転嫁して、その負担を極力避けて「ただ乗り」しているのです。本来なら、ヨーロッパの安全保障に対して死活的な利益を持つ西欧諸国が、ロシアの侵略に立ち向かうべきでしょう。にもかかわらず、ウクライナに安全保障上の死活的利益を持たないアメリカが、ロシアに対抗するコストをほとんど払っているのです。

メノン氏が安全保障の負担をヨーロッパに移行すべきというのは、もっともなことではないでしょうか。くわえて、そうなればアメリカは、ヨーロッパ方面で軽減された負担分をアジアでの中国や北朝鮮の脅威への備えに投入できます。このことは日本の安全保障を高めることにもつながります。

ロシア・ウクライナ戦争のような重大な出来事における専門家の役割について、リアリストのスティーヴン・ウォルト教授(ハーバード大学)は以下のように述べています。

政府当局者は間違いを犯しやすいので、社会は、彼らの考えをなす根拠に異を唱え、別の解決法を示す必要がある。学問に従事する学者は、終身在職権によって守られており、生計を政府の支援に直接頼っていないのだから、広く流布している説明や通説に異議を唱える独自の立場にある。これらの理由から、多様性に富み社会問題に積極的に関与する学術共同体は、健全な民主政治に組み込まれているということだ。

日本の大学やシンクタンクに籍を置くほとんどの研究者は、勤務先が政府の補助金で支えられているので、アメリカとはやや事情が異なります。それでも、学者は「知識人」としてメディア等で発言するのであれば、多くの人たちが聞きたくないことであっても、勇気を出して、国家の安全保障や国益にかなうと思われる政策処方を提示するべきでしょう。もちろん、そのような発言は非難を招くこともあります。

実際に、メノン氏は親ロシア派とのレッテルで批判されているようです。彼はこう嘆いています。「西側のウクライナへの武器支援に対するロシアの警告と拡大された戦争目的は、ますます深刻になりつつある。多くの人々は、ロシアの脅しはブラフだと主張する。確かに、その可能性はある。だが、彼らが間違っていたら、たいへんなことになるのだ。にもかかわらず、戦争のエスカレーションについてのいかなる理性的議論も不可能であり、この問題を取り上げただけで、親ロシア、反ウクライナと非難されてしまう」と。

ジョン・ミアシャイマー教授(シカゴ大学)は、ロシアのウクライナ侵攻がNATO拡大に原因があると主張したために、ロシアのプロパガンダを助長する親ロシア派であるとか陰謀論者であるとして、言われのない非難を浴びています。そのミアシャイマー氏は、こう切り返しています

誰かがあなたのことをレッテル貼りして呼ぶということは、それは主に彼らが議論の中身、つまり事実やロジックという面であなたに勝てないからだ。私自身は、人々が議論を仕掛けてきたときに議論の中身で勝負できない場合はレッテル貼りをしてくるものだと考えている。

我が国の論壇では、ロシアを批判しない発言、ロシアを悪と明言しない論述、ウクライナの全面支援に疑問を呈する言説は、「親ロシア」、「ウクライナへの寄り添いがない」、「降伏論者」といったステレオ・タイプで論難されがちです。このような現在の日本社会は、とても健全とは言えません。この重苦しい「空気」は、自由民主主義国家とは思えないものがあります。

戦争という感情を揺さぶる事象は、人々の道徳的衝動を突き動かします。リアリストのバリー・ポーゼン教授(マサチューセッツ工科大学)は、「西側諸国の間に、感情的な議論の高まりがみられるのが気掛かりだ」と警鐘をならしています。

そのような状態だからこそ、およそ「識者」と呼ばれる人は、レッテルを貼って相手を批判するのではなく、ロジックやエビデンスで議論することを肝に銘じるべきではないでしょうか。


編集部より:この記事は「野口和彦(県女)のブログへようこそ」2022年5月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「野口和彦(県女)のブログへようこそ」をご覧ください。