独「1991年外交機密文書」公開

独外務省が公開した「1991年外交機密文書」によると、ドイツのヘルムート・コール首相とハンス=ディートリヒ・ゲンシャー外相はソビエト連邦の解体を阻止するためにバルト3国(エストニア、リトアニア、ラトビア)とウクライナの独立阻止、北大西洋条約機構(NATO)の加盟に反対していたことが明らかになった。独週刊誌シュピーゲル4月30日号は公開された独外務省機密文書からその経緯を報じた。

NATOの東方拡大に慎重だったヘルムート・コール独首相(CDUより)

「1991年外交文書」では、ソビエト連邦解体とそれに関連するNATO東方拡大について、当時のドイツ政府のやり取りが記述されている。同外交文書はドイツの過去と現在の東方政策をめぐる議論に影響を与える内容を含んでいることから、注目を呼んでいる。

「西側が約束を反故にした」というモスクワ側の主張

ロシアのプーチン大統領は2007年、ミュンヘンで開催された安全保障会議(NSC)で、「欧米はNATOの東方拡大を実施しないと約束したが、それを反故にしてソビエト連邦共和国から独立した国を次々と加盟させた」と、公の場で初めて西側を激しく批判した。同大統領はそれから15年後の2022年2月24日、ウクライナのNATO加盟を阻止するためにロシア軍をウクライナに侵攻させた、と受け取られている。

91年の「外交文書」を見る限りでは、「西側が約束を反故にした」というモスクワ側の主張は正しい。コール首相は当時、ソビエト連邦指導者との会談でNATOの東方拡大は認めない旨を表明している。ただし、ロシアはその後、1997年5月27日、国際法に基づき、NATO東方拡大での信頼醸成措置を図る「NATO・ロシア創設法」に同意する意思表明書をパリで調印している。

ドイツの東方政策は当時、コール首相(在任1982年~98年)とゲンシャー外相(在任1974年~92年)の2人が外交舞台で活躍した。コール首相は当時、「ソビエト連邦の崩壊はカタストロフィーだ」と主張し、それを阻止するために腐心している。具体的には、バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)とウクライナの独立阻止に動いた。

コール首相は、「バルト3国は10年間ぐらいは現状を甘受すべきだ。3国は中立主義を掲げ、NATOや欧州共同体(EC)加盟は難しい」と考えていた。ウクライナに対しても、「ソビエト連邦を危険に落とさないために連邦に留まり、他の共和国と共存すべきだ」と考えた。

1991年11月、ロシア連邦ボリス・エリツィン大統領(在任1991年7月~99年12月)と会談し、「ドイツ政府がそのために可能な限り影響力を行使する」と語っている。しかし、同会談から2週間後、ウクライナは同年12月1日、独立を問う国民投票を実施して90%以上の国民が独立を支持している。

東欧諸国のNATO加盟はドイツの国益に一致しない

エリツィン大統領は1991年12月8日、ウクライナとベラルーシと共にソビエト連邦の解体で一致。同年12月26日、ミハイル・ゴルバチョフ大統領の辞任を受け、ソビエト連邦は公式に解体された。時代の時計はコールやゲンシャーが考えていた以上に急テンポに進んでいったわけだ。

ゲンシャーは当時、「東欧諸国のNATO加盟はドイツの国益に一致しない」と考え、ワルシャワ条約機構の解体(1991年7月1日)後、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアのNATO加盟をソビエト連邦への配慮から阻止しようと試みていた。

ソビエト連邦のエドゥアルド・シェワルナゼ外相は1991年10月、ドイツのゲンシャー外相を訪問した際、「ソビエト連邦が崩壊すれば、ロシアで近い将来、ファシストが台頭し、ウクライナのクリミア半島の奪回を要求するだろう」と警告を発している。同外相の予言は2014年、プーチン大統領のもとで成就している。

コールとゲンシャーの東方政策への批判

「1991年」の外交文書を通じて、コールとゲンシャーの東方政策を批判できるが、両者は当時、東西両ドイツの再統一、ソビエト連邦の民主化のチャンスと考えていた。フランスのフランソワ・ミッテラン大統領(在任1981年~95年)や米国のジョージ・H・W・ブッシュ大統領(在任1989年~93年)もその点で大きな相違はなかった。

ミッテランは当時、独立に意欲を示すバルト3国に対し、「モスクワと合意した内容を危険に陥れるようなことは止めるべきだ」と忠告した。

外交文書には興味深い話が記述されている。1991年1月13日、ソビエト連邦特別部隊がリトアニアの首都ビルニュスの民族主義者運動の拠点を襲撃し、多数の死傷者を出した。コール政権は当時、同事件を批判したが、後日、ゴルバチョフ大統領に電話をかけ、「(両者は)心のこもった挨拶を交わした」という。

ゴルバチョフが、「時には強硬政策を取らないと前には進めない」と説明すると、コールは、「政治には回り道もある。重要な点は目的を見失わないことだ」と答えている、両者は会話の中では一度も「リトアニア」という国名を発していない。独外交文書では「ゴルバチョフはコールの返答を評価した」と記述されている。

ウクライナのゼレンスキー大統領のドイツを見る目が時に厳しすぎるのではないかと感じてきたが、今回の外交文書を報じたシュピーゲル誌の報道を読む限りでは、ウクライナ側がドイツ側の外交に鬱憤が溜まっていたことが理解できる。

ゼレンスキー大統領はメルケル政権やシュタインマイヤー大統領の親ロ政策を厳しく批判するが、ドイツのロシア政策を考える時、ヴィリー・ブラント首相(在任1969年~74年)の東方政策、コール政権のソ連重視政策まで遡らなければならないわけだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年5月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。