「本要約動画は読書の代わりにならない」と断言する

黒坂岳央(くろさか たけを)です。

最近は興味のある書籍をGoogle検索すると、書評記事ではなくYouTube要約動画が出てくる。要約動画はいずれも多くの再生回数を稼ぎ出す人気コンテンツであり、出版社としても書籍の宣伝になるから特にうるさくしていないようだ。

結論からいえば、筆者の個人的感覚値では要約動画は読書の代わりが務まるとは思わないし、時短とも思わない。オリジナルのコンテンツが書籍であるなら、やはり書籍で学ぶ方が有用であると考えている。だが、多くの人の支持を得ているのは事実で、活用法もあると思う。その論拠を展開したい。

metamorworks/iStock

要約動画はどんな人が見ているのか?

世の中、情報収集や学習は「動画しか見ない人」と「テキストで学ぶ人」にわかれていると感じる。

筆者は英語学習法について、ブログ記事と動画で発信している。まずはブログ記事で記事を書き、それを台本代わりに動画撮影をするというスタイルである。興味深いことに視聴者は完全に二分されており、「動画は時間がかかるのでブログ記事で読む」という人と「テキストは苦手なので動画で見る」という人にわかれている。これは肌感覚からもわかるつもりだ。

つまり、要約動画はこれまで動画で学ぶスタイルが主流でなかった時代には存在しなかった価値を提供していることになる。勉強の習慣のなかった人を勉強させているという意味で有用な存在と言えるだろう。

要約動画、最大の問題点とは?

しかし、要約動画は万能ではない点に留意する必要がある。それはメリットでもあり、デメリットでもある「時短」という点にある。

本来、書籍はかなりのボリュームがある。筆者は過去に3冊本を書いているのでわかるのだが、200-300ページものテキストを書くとなると、10万文字レベルとなる。筆者のビジネス記事は2000文字/記事がアベレージなので、50記事分に相当する情報量だ。もしも音声に起こすなら数時間になる。実際、オーディオブックは、全部で3時間以上の音声の作品ばかりである。

これを10分前後に要約するとなると、元の180分が10分になるため、18分の1だ。オリジナルからかなりの分量を削る計算になる。30分の長編動画でも6分の1になる。書籍によってはページ数を稼ぐために、薄めたカルピスのような情報濃度のものもあるので、濃厚なエッセンスに仕上げることに価値はあるケースも有る。

だが、以上の理由から本質的にオリジナルの情報量と比べれば、ドラスティックな削減になっている点は否定できない。

要約動画は時短である。だが、情報量も圧倒的に削られているという事実は理解しておく価値はある。

要約動画は「分かった!」という錯覚を招く

そして要約動画で見落としがちなのは、「分かった気になる」という感覚に陥りかねないということだ。

これは「ダニング=クルーガー効果」で説明できる。同効果においては「初心者や能力が低い人ほど、自分を高く評価する」とされる。

10分ほどの動画を見て「この書籍のエッセンスはすべて理解した!」となってしまうことで、次の問題が生じる。

・わかった気になるから、知識を深掘りしなくなる。
・知って満足するから行動しない。
・他人の借り物意見を使った「ニワカ評論家」になる。

過去において、筆者は要約動画を見て興味を持った書籍を買ってきた。動画を見た後に書籍を全部読んで感じたことは「やはり書籍でなければ真の理解には到底及ばない」ということで、何冊読んでもこの感覚に一つの例外もなかった。

また、筆者自身が英語学習法を要約した動画を配信したこともあるのだが、動画を視聴したはずの人から、動画で説明済の内容を誤解したり抜け落ちている人もかなりいる。もちろん、これは筆者の動画の質が低い点も疑わなければいけないが、動画はテキストと異なり、姿勢が受動的になるため情報の受容度が落ちることで起きている現象の可能性がある。

動画は手軽に時短で学習できると思いがちだが、実際には全部頭に入っているわけではない。更に悪いことにはすべてを理解できたような感覚に陥るリスクすらある。受動的にビジュアルベースで脳に負荷がなく手に入れた知識なので、抜けるのも早いし学んで行動することにもつながりにくい。

勉強は自主的にするものであるため、テキストを能動的に読まなければ先に進めない書籍で行うことが、真の学習になるのでは?と思う。

筆者個人的に、要約動画はすでに学んだ情報を復習する際に最大の効果を発揮すると思っている。実際、過去に読んだ書籍の内容を復習したくて動画を視聴することはある。だが、最近はその逆をもうしていない。それに考えてみれば、大物ビジネスマンや専門家の中で「新しい分野や専門分野を要約動画で学んでいる」という人はあまり多くないのではないだろうか。

そこを考えると、やはり今も昔も、勉強とは自主的、能動的、そしてテキストベースでするという部分は変わらないのではないかと思っている。