ウクライナの惨状は「専守防衛」日本の未来予想図か

Vasil Dimitrov/iStock

ウクライナの現時点での損害状況

NHKの特設サイト「ウクライナ情勢」(2022年5月11日時点)によれば、ウクライナ市民の死者は少なくとも3,381人に達し、国外に避難した人は589万人を超えるとのことです。なおこれらは国連発表に基づく数値なので、どちらかに大きく偏ったものではないと考えます。

▼市民の死者 少なくとも3381人 うち子ども235人 実際の死者数ははるかに多い(国連)
▼国外に避難した人の数は589万人超、うち最多のポーランドに321万人(国連)

また、日々報道される現地状況の映像を見ると、一般住宅や病院あるいは商業施設といった日常生活の場が激烈な攻撃を受けております。国内に安全な場所はないので国民のおよそ15%が国外に避難し、戦闘地域では国土が荒廃してしまったのが現実の姿です。

ウクライナは「国土が戦場」の防衛戦

2月24日以来、首都キーウに加え東南部一帯が戦闘地域となりました。更に2014年に遡れば、クリミア半島も含めて、戦闘地域はウクライナの領土です。一部ロシア領内への散発的な攻撃も報じられましたが、それはロシア側の攻撃を支える“策源地”を破壊する意図であり、“防衛戦”の一環とみなすことができるでしょう。

現在までのところウクライナは防衛に専念し、米国をはじめとする国際社会の支援を受けてロシア軍によく対抗し、一層の侵略拡大は防いでいます。しかしこれまでに少なくない国土を侵食され、国民の多くを失ったことは事実です。防衛戦では、演習と言い張って国境に集結した部隊の奇襲的侵入と攻撃を防げません。また防空システムの提供を受けても、海上や敵地から飛来するミサイルや爆弾搭載航空機を完全には防げません。

これらウクライナの被害状況が示す現実とは、

「破壊兵器から完全に国土を防衛する防御兵器“イージス(神の楯)”」は存在しない

ということでしょう。

「専守防衛」では日本の国民と国土に大きな損害があるだろう

防衛白書(令和3年版)を見ると、「これまでわが国は、憲法のもと、専守防衛に徹し」という基本政策が掲げられております。また同白書は「専守防衛」について次のように説明します。

専守防衛とは、相手から武力行使を受けたときにはじめて防衛力を行使し(中略)憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢をいう

仮に、潜在的な攻撃意図を秘匿し、「演習」などの名目で攻撃準備位置に就く敵性部隊を前にしたとしても、攻撃開始の前に「これは攻撃である」と断定することは、現実には難しいでしょう。実際ロシアが2月24日に攻撃を始める前には「本当に攻撃が始まるのかどうか」は、誰にも断定できず、可能性の高さを指摘するにとどまったことを見ても自明です。独裁あるいは権力集中度合の高い人物がその権限を握るとき、その当事者以外、誰にも事前に断定できません。

現在議論されている「敵基地攻撃(反撃)能力」は、抑止(または防衛)のためであっても攻撃能力の増大であることに変わりはなく、とりわけ宣伝戦に弱い日本では、仮に実際の攻撃を受ける前に察知して“敵基地攻撃(反撃)”したならば、「日本による侵略だ」と国内外から主張されることが容易に予測できます。はたして日本国総理大臣(最高指揮官)は、攻撃を決断できるでしょうか。

結局「専守防衛」の基本姿勢の下では、現実には先に敵が攻撃してはじめて「攻撃を受けたので防衛のために日本側が反撃する」という順番になるでしょう。このことは、仮定の話として抑止に失敗した場合、「敵の第一撃は受けざるをえないが、それが激烈なミサイル攻撃などであれば甚大な被害は覚悟するほかない」という現実を表します。

言い換えると「甚大な被害が発生してはじめて、自衛隊は防衛活動を始められる」ことを意味しているでしょう。

つまりウクライナの惨状は「専守防衛」日本の未来予想図の一つと言えるでしょう。

しかしこの種の現実的なリスクシナリオは、明確に提示されていません。言霊の国だからでしょうか。もし明示された場合、果たして日本国民はこのリスクを放置するのでしょうか。

「専守防衛」は憲法解釈で切り抜ける“弥縫策”の一つ

掲げられた当初はそれなりに意義のったスローガンでしたが、今となっては結局「専守防衛」は現実的な防衛姿勢としては多くの問題を抱えております。

諸外国の装備と戦略が大きく進歩した現在、それに対抗して日本側の装備と戦略も進化させることは必須の対応です。もはや観念的なスローガンをめぐって議論している場合ではなく、顕在化したリスクと現実の日本との間に広がっているギャップを埋める作業に着手すべき時期でしょう。

「専守防衛」に代わる基本姿勢の議論を

現実的な環境変化に合わせて、足かせでしかない「専守防衛」という国防姿勢を一度深く検証すべき時期にきていると言えないでしょうか。踏み込んでいうならば、「一旦取り下げ」をも視野に入れて、国民的な議論をすべき時ではないでしょうか。

現状変更を試みる国々、露中北朝鮮に囲まれ、その国の一つは「核の恫喝」で非核兵器国を侵略し、もう一つの国は核兵器の開発を継続し、最も脅威の大きな国は、年々軍事力を増大させ、近いうちに西太平洋地域における米国を凌ぐのではないかと予想されております。日本が位置する極東地域の平和は、無為自然に発生しているわけではないでしょう。

知を結集して新戦略コンセプトを

非核三原則の見直し論や核抑止に関する議論が一部に起きておりますが、表向き政府は動きません。しかしそれは当然で、日本政府の公式見解として「見直し」や「核の議論」の必要性を認めるということ自体が、日米同盟の信頼性に影響を与える行為であるからです。

そこで、政府や防衛省のみならず、研究者や大学教授等、日本に存在する知を結集して「専守防衛」に代わる新たな防衛戦略のコンセプトを組み立てるべき時ではないでしょうか。

日米開戦直前の「総力戦研究所」が一つのイメージです。つまり次世代の若い人材を集めて、タブーを排した議論や「兵棋演習」的な実践研究をして頂き、現実的な戦略の錬成ができないものかと思います。

現在の日本は「防衛のことは防衛省、情報通信の管轄は総務省、なお予算は財務省で」のような組織の枠組みをなかなか超えられないものと想像します。しかし量的にも質的にも変化の著しい現代に対応しきれていないのではないでしょうか。

「米国と戦争していた時、日本陸軍だけでは解けなかったアメリカ軍の暗号を、途中から数学者の力を借りたら解読が進んだ」という話もありました。福島原発事故の際、自衛隊が「ヘリコプターから水を注ぐ」という決死的作戦を実行しようとしていたころ、在野の建設事業者は「あれくらいならばポンプ車で送ればいい話なのになぜ使わないのか」と不思議がって言っておりました(後に実現しました)。

“当事者”あるいは“主務者”という縛りを取り払って広く知見を集めれば、容易に問題解決できることが、世の中には意外に多いものです。

現在、国防も経済も含めて包括的な安全保障の枠組みが大きく揺さぶられております。この国難に臨み、知を結集して一段上の集団知を構成するリーダーが登場することを心から願います。情緒的ですが、「日本の本気を見てみたい」と思います。