沖縄返還と「非核三原則」は佐藤栄作のスタンドプレーだった

池田 信夫
他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 〈新装版〉

きょうは沖縄の返還50周年。また返還のときの「核持ち込みの密約」が蒸し返されているが、最近の研究では、密約が必要だったかどうかもあやしい。もともと日米安保条約では核持ち込みを認めていたので、沖縄は特別な存在ではなかったのだ。

1969年に日米共同声明で「核抜き・本土並み」の返還が決まったのと同時に「有事の核持ち込み」を日米首脳の「議事録」で約束した。その存在は佐藤の密使としてキッシンジャーと交渉した著者(若泉敬)が明らかにし、「密約なしで沖縄返還は実現できなかった」と主張した。

2009年に民主党政権の岡田外相が密約の存在を確認したが、正式の外交文書とは認めなかった。それは日米首脳が私的にかわしたメモであり、のちの首相にも引き継がれていないからだ。

実際には返還以降、沖縄に核が配備されたことはない。沖縄に配備された米軍の戦術核(メースB)は旧式で、核兵器の主力は原子力潜水艦に搭載したSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)になっていたからだ。では返還交渉で「核抜き」が最大の争点になり、密約までかわされたのはなぜか?

「核抜き・本土並み」というきれいごと

もともとアメリカは、戦略的な理由から、沖縄の戦術核を撤去する予定だった。SLBMの射程がメースBより大きくなったので、陸上配備は必要なくなったのだが、日米交渉でそれを返還の条件にして(本当の目的である)基地の自由使用を維持しようとした。

アメリカは講和条約のとき沖縄を信託統治領としたが、国家主権は日本にあった。冷戦の中で日本との同盟国としての絆を深めるには、沖縄返還が重要な取引材料になるとアメリカは考えたのだ。

だが厄介なのは、核兵器の扱いだった。安保条約では、核兵器の持ち込みは事前協議の対象だったが、日本の施政権の及ばなかった沖縄だけは陸上に核兵器を配備できた。この権利を返還後も守りたいというのが米軍の主張だった。

日米交渉ではアメリカ側の窓口は国務省だったが、米軍の意向が結果を大きく左右した。ニクソン大統領はキッシンジャー補佐官に交渉をゆだねたが、日本側は佐藤首相と中の悪い三木外相だったので、交渉は難航した。このため佐藤は若泉を起用したのだが、当時は外務省も密使の存在そのものを知らない二元外交だった。その結果、次のような密約がかわされた。

米合衆国大統領
日本を含む極東諸国の防衛のため米国が負っている国際的義務を効果的に遂行するために、重大な緊急事態が生じた際には、米国政府は、日本国政府と事前協議を行った上で、核兵器を沖縄に再び持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とするであろう。かかる事前協議においては、米国政府は好意的回答を期待するものである

さらに、米国政府は、沖縄に現存する核兵器の貯蔵地、すなわち、嘉手納、那覇、辺野古、並びにナイキ・ハーキュリーズ基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、重大な緊急事態が生じた時には活用できることを必要とする。

日本国総理大臣
日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう

外交文書としては珍しく率直に「アメリカが事前協議を求めたら日本はOKする」と書かれており、日本が有事の核持ち込みを約束したという以外の解釈は不可能だ。おまけに嘉手納、那覇、辺野古などの具体的な基地名をあげて自由使用を認めており、返還前と変わらない。

外務省も知らなかったアマチュア的な密約

若泉は本書で、この密約で核持ち込みを認める他に策はなかったというが、密約の中身は日米共同声明と実質的に変わらない。共同声明でも「日米安保条約の事前協議制度を沖縄にも適用する」と明記されているからだ。

安保条約の事前協議は口頭の密約で、外務次官の引き継ぎ事項だったというが、横須賀に第7艦隊が核兵器を搭載して寄港したときも、協議は行われていない。つまり本土でも核持ち込みはイエスだったのだから、本土並みは核抜きではなかったのだが、若泉はこういう経緯をよく知らなかったと思われる。

密約の文書が、2009年に初めて佐藤の自宅から出てきたのも奇妙である。後継の首相にも引き継ぎが行われず、外交文書にさえなっていない。民主党政権はこれを本物と認定したが、日本政府を拘束するものではなく、アメリカ国内で軍を説得するためのメモにすぎない。

若泉はこの経緯を1994年に著書で公にしたあと自殺するが、彼の「バックチャネル」は意味があったのだろうか。密使は外交交渉を円滑に進める上では一概に否定できないが、外務省も知らない密室で行われた彼の二元外交は、いかにもアマチュア的だった。

沖縄返還は、ベトナム戦争に協力して評判の悪かった佐藤の人気取りのためのスタンドプレーだったが、沖縄に不信感を残した。そして沖縄返還と同じ1972年に内閣法制局の出した「集団的自衛権の行使は憲法違反だ」という見解は「沖縄に米軍基地は置いてもいいが、自衛隊はベトナムには派兵しない」という意思表示だったのである。