公の場での暴力を激しく非難する北米と欧州

谷本 真由美

日本では、アカデミー賞でウィル・スミスがクリス・ロックをビンタしたことが称賛され、それを男らしく素晴らしい行動であったという人が少なくなかった。

ところが北米と欧州では彼のビンタは大変厳しく非難され、アカデミー賞に参加していた女優の中には「吐き気を催すほどひどかった」とまで言う人がいた。また、現地のネットでの反応を見ているとウィル・スミスを非難する言葉がほとんどで、特に子供がいる親たちは彼の行動を激しく非難していた。

Andry Djumantara/iStock

なぜ日本ではビンタが称賛され、北米や欧州では非難されたのか。これも社会的な違いを理解していないとなかなか分かりにくい。北米と欧州の場合はこのビンタには人種対立の背景が深く関わっていることを理解しなければならない。

北米でも欧州でもアフリカ系の人々というのはその歴史的背景があって大変な差別を受けてきた。そのため、アフリカ系の人々自身が社会で認められるために大変な努力をしてきたのである。

エンターテイメントの世界ではシドニー・ポワチエやデンゼル・ワシントン、モーガン・フリーマンといった役者が、社会におけるアフリカ系のイメージを大きく変えるのに大きな役割を果たしてきた。

エンタメの世界では、長い間アフリカ系というのはシリアスな役や社会的に地位が高い役をあてがわれることがなく、犯罪者やお笑い的な脇役ばかりが多かった。それを改善するために役者達は大変な努力をしてきたのである。

また一般のアフリカ系の人々もなんとか社会で認められるために、常にきちんとした服装をしたり言葉遣いや行動に大変気をつけている人が少なくない。白人や他の人種の何倍も努力をして仕事で実績も出さなければ認めてもらえないのである。

ところがウィル・スミスの行動は、彼らのそういった努力をひっくり返してしまうような大変な事件だった。アフリカ系はやっぱり暴力的だ、感情的で冷静さがない、場をわきまえてない、子供のお手本になれないといったネガティブなイメージを全世界に晒してしまうことになった。

特にこれは子供がいるアフリカ系の人にとっては本当にショックなことだったのである。

私の著書「世界のニュースを日本人は何も知らない3」にも書いたが、北米や欧州は日本と比較して街中に暴力が溢れている。

特にアメリカの場合は銃が簡単に手に入るので、ちょっとした争いが殺人に発展することも少なくないのだ。

また、アフリカ系の場合はまだまだ貧しい人も多く、犯罪率が高い地域に住んでいる人も少なくない。そういった状況で育つ子供の親たちは、子供をとにかく暴力から遠ざけようと普段から大変な苦労をしている。

ところが子供映画のヒーローが、アカデミー賞という世界最高の映画賞の場でジョークを言っただけのコメディアンをビンタしてしまうということは、子供達がそれを真似する可能性があるということだ。

何か気に入らない事があれば言葉で話し合ったり説得するのではなく、物理的に暴力をふるって解決すれば良いと考えてしまう。

ビンタで済んでいればまだマシだが、北米や欧州は日本と違って暴力のレベルが全く違う。アメリカやイギリスの場合はビンタが銃やナタといった飛び道具にになってしまう。

また手で殴る場合も日本人よりも体が大きい人が多いので、素手で殴るだけで相手を殺してしまうという事件も珍しくない。

例えばイギリスの場合は12歳の小学生がアフガニスタン人の高齢者を殴りつけて殺す事件があった。

コロナが流行ると、アメリカやフランス、イギリスでは、東アジア系に対して殴る蹴るといった暴行事件があった。アメリカでは中国系のお年寄りが実際に殴り殺されてしまったのである。

こういった暴力が普段の生活にあふれているので北米や欧州の親達は、子供を暴力から遠ざけることにとても気を使っている。

フィクションである映画やアニメでも暴力的なものはとても嫌がる家が多い。例えば日本の戦隊物やアンパンマンといった作品も子供には見せられないという親が少なくないのだ。

日本では暴力はあくまでフィクションの世界のものであり、普段の生活では見かけることはないから、そういった作品が受け入れられているが他の国では違う。

学校では物理的な暴力を振るった生徒は即退学になるという学校も少なくないのである。日本とは暴力に対する制裁の厳しさが違う。

ちょっとした暴力を放置しておいたらそれがエスカレートして殺人にまで発展するということを分かっているからである。

子供や若い人は有名人の影響を受けやすいので、ウイル・スミスのビンタは大変な事件だったのである。

楽しさや美しさを売りにするはずの映画の世界に、話し合いや理性を無視した暴力が登場してしまった事実を、ウクライナという美しい国が理不尽に破壊され、多くの人が虐殺されている状況に重ねてしまった人が多いのではないだろうか。