富豪や大企業が起こす「スラップ訴訟」:言論の自由萎縮を懸念し、英政府が撲滅を模索

スラップ訴訟とは

言論の自由を脅かす「スラップ訴訟」を根絶するため、英政府が動き出した。

「スラップ(SLAPP)訴訟」とは「Strategic Lawsuit Against Public Participation (市民参加を妨害するための戦略的訴訟)」の略。1980年代に米デンバー大学の教授らが命名した。富裕な個人や大企業などが学者やジャーナリスト、市民組織に対して起こす、批判や反対運動を封じ込めるための威圧的な訴訟を指す。

「プーチン本は名誉棄損」 アブラモビッチ氏が提訴

スラップ訴訟の最近の具体例を見てみよう。

英高等法院は昨年11月、フィナンシャル・タイムズ(FT)紙のキャサリン・ベルトン元モスクワ支局長による著作『プーチンの人々(未訳)』(2020年、ハーパーコリンズ)の中の数か所がロシア出身の新興財閥ロマン・アブラモビッチ氏に対する名誉棄損に当たると結論付けた。

ベルトン氏の著作『プーチンの人々』(版元ハーパーコリンズのウェブサイトから)

ベルトン氏は、03年のアブラモビッチ氏によるイングランドのサッカークラブ・チェルシー買収について「ロシアのプーチン大統領と同政権の指示によるものだった」などと書いた。これを否定する見方も紹介していたが、裁判官は「一般読者はプーチン政権の指示の下、クラブが買われたと解釈する」と判断した。

出版社と著者は21年12月、原告に謝罪し、数か所の表現を修正した。また、アブラモビッチ氏の要請で、賠償金を支払う代わりに慈善団体への寄付を約束した。

原告側は「謝罪があったことと偽情報が取り除かれたことに満足している」と述べた。

著者は「修正を望まなかったが、ここで和解しなければ裁判費用が250万ポンド(約4億円)に膨れ上がる可能性があった」という(今年3月15日、下院の公聴会)。関連の名誉棄損案件で版元の和解金総額は150万ポンドに上っている。

大手資源企業が記者と版元を訴えたが

高等法院は3月2日、カザフスタンを拠点とする大手資源企業「ユーラシアン・ナチュラル・リソーシズ・コーポレーション(ENRC)」による名誉棄損の訴えを却下した。

提訴対象となったのは、FT記者のトム・バージェス氏とその著書『クレプトピアーいかに不正資金が世界を支配しているか』(未訳、2020年)の版元ハーパーコリンズ。

同氏はENRC社内での汚職を察知した男性職員2人と地質学者が亡くなったと著書に記した。

原告側はバージェス氏の著書について、ENRCがビジネス上の利益を守るために男性らを殺害させたとの印象を読者に与えると主張。しかし、裁判官は男性らの死の責任がENRCにあるとは書かれていないなどとして訴えを却下した。

ENRCは関連の調査記事を執筆したバージェス氏および記事を掲載したFTを名誉棄損で訴えたものの、高等法院は3月14日に退けた。

同氏は2つの訴訟で勝利したが、原告側から提訴を暗示する書簡が送られてきた時から、大きな心理的圧力がかかったと明かしている(同15日、下院の公聴会)。

バージェス氏の著書『クレプトピア』(同氏のウェブサイトより、キャプチャー)

「報道に二の足を踏む」とガーディアン紙

裁判に至る例は氷山の一角でしかないとも言われている。

3月31日に開かれた上院の通信・デジタル委員会の公聴会に出席したガーディアン紙の司法サービス部門ディレクター、ジル・フィリップス氏は「大手企業あるいは新興財閥が脅しをかけてくることが予想されると、報道に二の足を踏む」と述べた。スラップ訴訟が言論の自由を委縮させている。

英シンクタンク「フォーリン・ポリシー・センター」の調査(20年)によると、世界41か国で金融犯罪や汚職の調査報道に取り組む63人のジャーナリストのうち、71%が脅し・嫌がらせ行為に遭遇している。

ロシアのウクライナ侵攻で、法改正の機運

英国(ここではイングランド及びウェールズ地方)の名誉棄損法は、原告には立証責任がなく、書き手あるいは報道機関が記事の正確性を立証する必要がある。世界の富豪や有力者に乱用されやすく、言論の自由が奪われる懸念はこれまでにも報道機関などから指摘されていた。

2月24日のウクライナ侵攻を契機に英政府が対ロシア制裁を強める中、法制を変える気運が生まれた。

「新興財閥やプーチン政権に近い人物が英国にきて、汚職問題等に光を当てる書き手や非営利組織に対し英国の名誉棄損法を悪用している。このような事態を防ぎたい」(3月14日、ドミニク・ラーブ司法相、BBCのラジオ番組)。

司法省は3月17日、スラップ訴訟を防ぐための意見募集を開始した(5月19日が最終受付日だった)。

同省は意見募集に合わせ報告書を公表している。この中で、名誉棄損法の免責事項のうち「公益に資する内容の公表」の適用枠拡大、原告が受け取る損害賠償金額への限度付与などを提案している。

参考
英国の名誉棄損法をめぐる事情についてのBBCニュースの記事(2017年11月23日付)セクハラ問題、なぜ英より米でこれほどたくさん浮上

新聞協会報に掲載された筆者コラム「英国発メディア事情」に補足しました。)


編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2022年5月23日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。