中国空母艦名考:ワリャーグ・施琅・遼寧・山東・福建

中国は6月17日に進水させた3隻目の空母を「福建」と命名した。「福建」は「山東」に続く2隻目の国産空母で、1隻目の「遼寧」はウクライナの中古(新古?)だった。まず「遼寧」について、6月27日付の時事ドットコム「世界の航空母艦」からポイントを要約してみる。(以下文中の(※)は筆者)

中国は旧ソ連製の「ワリャーグ」をウクライナから98年に購入、02年から9年かけて改修し、12年9月に「遼寧」命名して就役させた。「ワリャーグ」は(※旧ソ連の兵器廠)ウクライナのニコライエフスクで88年に進水したが、ソ連崩壊による資金不足で未完成のまま放置されていた。

大連に回航されたワリャーグ
Wikipediaより

購入後に機関や兵装、電子システムなどを自国製に入れ替えて就役にこぎつけた「遼寧」は、全長約3百メートル、満載排水量約6万トンで、固定翼機を約20機搭載できる。カタパルトを装備せず、傾斜を付けた飛行甲板(スキージャンプ台)から航空機を発艦させる方式。

艦載機を離発艦させる様子は未公表で、殲15(※中国の戦闘機)の詳しい性能も不明だが、エンジン出力がSU33(※ロシアの戦闘機)と同等の場合、自力で離艦できるスピードを得られず、遼寧が全力航行して向かい風を発生させ、艦載機に揚力を与える必要がある。

また令和2年度の「防衛白書」は「海上戦力」の項で、「中国の空母」について以下の様に記述している。

空母に関しては、初の空母「遼寧」が2012(平成24)年9月に就役後、2013(平成25)年11月に南シナ海へ、2016(平成28)年12月に太平洋へそれぞれ初めて進出したとされる。また、同月には、渤海において、艦載戦闘機による実弾発射を含む実弾演習が、「遼寧」が参加する初の総合的実動演習として実施された。2018(平成30)年3月から4月にかけては、南シナ海で海上閲兵式に参加した「遼寧」がその後太平洋に進出し、艦載戦闘機の活動を含む対抗訓練を行ったと発表されている。

2017(平成29)年4月に進水した中国初の国産空母(中国2隻目の空母)については、2019(令和元)年12月、「山東」と命名され南シナ海に面した海南島三亜において就役した。「山東」は「遼寧」の改良型とされるスキージャンプ式の空母であり、搭載航空機数の増加などが指摘されている。さらに、国産空母2隻目を建造中であり、当該空母は固定翼早期警戒機などを運用可能な電磁式カタパルトを装備する可能性があるとの指摘や、将来的な原子力空母の建造計画が存在するとの指摘がある。

筆者は2隻目の「山東」が就役間近だった2019年3月、本欄への「中国が空母の名前に込める日本への怨念」と題した寄稿で、「遼寧」の元の名「施琅」に触れ、「11年4月27日には、国務院台湾事務弁公室が“施琅”の名称を否定している」ことを、何故わざわざ否定するのかと訝った。

初の国産空母 「山東」Wikipediaより

「施琅」とは、今も台湾で英雄視される「国姓爺・鄭成功」の父芝龍の部下で、明末に芝龍と共に清に寝返り、台湾からオランダを駆逐した鄭政権を倒した将軍の名だ。そして「遼寧」省には、日清戦争に勝った日本が台湾と共に割譲を受けたものの、独仏露の「三国干渉」で返還させられ遼東半島がある。

2隻目の「山東」省には、膠州湾に良港・青島があり、第一次大戦に日英同盟の誼で参戦した日本は英国軍と連合して膠州湾の独軍を駆逐した。パリ会議で引き継いだドイツの山東権益を「対華二十一ヵ条要求」で延長拡大し、反発する中国に対して26年と28年の二度出兵した因縁のある地だ。

こうした経緯があるので、「施琅」⇒「遼寧」、そして「山東」の命名を聞いて筆者は、「中国が矛先を台湾から日本に向け変えた」と感じた。何故なら「山東」を建造していた当時の台湾の政権与党は、陳水扁民進党政権(00年〜08年)を倒した、中国寄りの国民党馬英九政権(08年〜16年)だった。

そして「福建」。前2隻の命名経緯から推して、かつて習近平が省長だった「福建」省と海峡を隔てた台湾を牽制する意味が込められていることは明らかだ。外省人渡台前(43年)の総督府統計では台湾総人口約659万人の約76%が福佬人(※福建人)だったほど所縁も深い(後出の若林著書)。

「福建」について6月27日の産経新聞「世界の論点」は、矢板明夫台北支局長が「福建」の大型化や大幅に強化された能力に触れつつ、「中国による軍事統一の脅威にさらされる台湾のメディアは高い関心を示し、米メディアはアジアにおける米軍の増強も求めている」と書いている。

その特徴の第一は「電磁式カタパルト(射出機)」だ。西側や台湾が「遼寧」を「ポンコツ」と腐し、「山東」を「遼寧」の「二番煎じ」と侮り、動力が原子力でない「福建」を「遠洋展開に不向き」「夜間での作戦対応能力も未知数」などと軽んじる間に、中国は着々と海洋国家への道を歩んでいる。

前述の拙稿で筆者は、施琅将軍が台湾を放棄しようとする康熙帝に対して、次のようにその重要性を説いて思い止まらせた逸話を紹介し、「なんという卓見。三百十数年後の現在にもそのまま当て嵌まりそうではないか」と書いた。

台湾は一見、海外のほんの一孤島に過ぎないようであるが、その実は南シナ沿岸を守るに欠くべからざる外郭の地位を占めている。一度これを失えば脱走兵や海賊、流民らの巣窟となり、或はオランダ人が再度占拠することになろう。そうなれば大陸沿岸の諸省は安全無事を期することが出来なくなる。

最近、偶さか読んだ「台湾 変容し躊躇するアイデンティティー」で著者の若林正丈がこの「施琅」の一節について、「興味深いのは、台湾に対するこのような見方が、約二世紀後にも三世紀後にも、かなり正確なエコーが聞かれることである」と述べていた。

「約二世紀後」とは、ペリー提督が日本からの回答待ちで立ち寄った「台湾を領有すべき」との趣旨の報告のことで、「約三世紀後」とは現代の状況を指す。矢板は「福建」の就役が「米中覇権争いの分岐点に(※なる)」と書く。折しも日本は参院選、この地域における日本の役割の自覚度も重要な争点だ。

最後に再び「ワリャーグ」。土肥恒之の「ロシア・ロマノフ王朝の大地」に10世紀前後の話として、こういう一節がある。

ロシアを征服したノルマン人は元来そこで手に入れた奴隷と毛皮を中東で売りさばくことで富を獲得してきたが、その伝統も(※キエフ国家に)受け継がれた。ドニエプル川の中流の小高い丘にあり、「ヴァリャーギ(ノルマン人のこと)からギリシャへの道」という国際的交易路において重要な位置を占めていたキエフは積極的に交易相手を求めた。

文中の「ヴァリャーギ(ノルマン人のこと)・・」とは「ワリャーグ」のことで、また()内を補足すれば「(ヴァイキング、すなわちノルマン人のこと)」となろう。ここで、スウェーデン人はノルマン人の後裔だが、フィンランド人はフィン人であってノルマン人ではない。

ならば、歴史通のプーチンにはフィンランドを攻撃する理屈がないことになるが、今の彼は理屈や道理を忘れたようだ。それと、仇である「ワリャーグ」を、ソ連がなぜ軍艦名に使うのかも訳が分からない。日露戦争で日本海軍が最初に奇襲したロシア巡洋艦の名も「ワリャーグ」だった。

いずれにせよ中国空母の名前はエピソードに事欠かない。