かつてサラリーマンが会社に人生を捧げた昭和。日本人の勤勉さは、我が国を世界第二位の経済大国に押し上げた。その後、失われた30年と称される平成を経て、令和の若者はどう生きていくのか。
筆者が以前に執筆した記事『「踊る広報」という生き方 ~サラリーマンでもやりたいことを諦めないパラレルキャリアについて~』でも紹介した現代の生き方に「パラレルキャリア」がある。
本業と並行して第2のキャリアを築く生き方を「パラレルキャリア」という名称で紹介したのはP.F.ドラッカーだ。しかし、これはいわゆる副業の推奨ではない。
そのため、本業以外の活動から報酬を得られるかどうかは問題ではない。というよりも、正業と副業という成り立ちではなく、二つ以上のキャリアが並立するものだと考えられる。収入を得るための仕事と並行して自分の情熱を傾けられる活動があることで、人生はより充実させることができるという考え方である。
本業を持ちながら別のキャリアを築くなどと聞くと、かなりアクティブでハードワークができる人にしか実現できない印象を受けるかもしれない。しかし、実はそうとは限らない。ここでは「陰キャ」(=「陰気なキャラクター」の略で、内気な性格の人を指すスラング)な若者が実践する、興味深いパラレルキャリアの実例を紹介したい。
古民家に暮らす若者
静岡県焼津市の田園風景の中に、400坪の土地に延床90坪の古民家がある。戸塚礼雄(れお)さんは、妻と保護猫二匹と一緒にそこで暮らす36歳のサラリーマンだ。
戸塚さんが住む家は、田舎とはいえ土地建物ともにかなり広い。敷地には来客のための駐車場が20台ほど確保でき、広い庭にはいくつもの物置やピザ窯が置かれている。
家の中は戸塚さん夫婦の居住スペース以外にも、縁側を含む20帖ほどのミーティングサロンや民泊スペース、ミストサウナにシャワーブース、広いダイニングキッチン、さらにネコ部屋も12帖ほどある。
羨ましいほど広いこの邸宅に住む戸塚さんは、もともと資産家だったというわけではなく、静岡市内の宝飾時計店に勤める平凡なサラリーマンで、年収は約300万円。フルタイムで働く妻と二人の収入で暮らしている。
今どきの若者らしく物欲が薄く、華美な生活を望んでいるわけでもない。失礼ながらその生活ぶりは地味といってよい。
今の自宅は、地元の金融機関から1700万円の住宅ローンを借り入れ、売れ残っていた古民家を安く買い取り、DIYなどで費用をかけずに改修を重ねて現在の状態にまで整備した。特別に高額な投資をしたわけではなく、トータルでかかった費用はこの地域で一般的な建売住宅を購入した場合と大差ない。
ゆとりの空間
戸塚さんは、そんな今の家を「ゆとりてら」と名付け、様々なイベントを試みている。
庭にあるピザ窯を使って開く「ピザ会」や「持ち寄りカレー食べ比べ会」などのユル系から、健康をテーマにした「ウエルネスアワー」、また「才能爆発研究会」などの自己啓発ミーティングなど、多彩なイベントにはそれぞれ毎回10~20名の参加者が訪れる。
また、民泊施設の宿泊者には全国を巡礼する僧侶や、地元の野外音楽イベントのスタッフがまとまって泊まるなど、先に紹介したイベントも含めて、ゆとりてらには感度の高い個性的な若者たちがひっきりなしに訪れる。
6月のとあるイベントの感想を、戸塚さん自身がこう綴る。
ゴールには、様々な”顔”があり
課題にも、様々な”ステージ”がある。
楽しみたい、好きを突き詰めたい
滞りを解消したい、理想の景色を見たいetc…
それぞれの想いが折り重なるところで
それぞれの人生に彩りが生まれていく流れが
とても美しく、尊いご縁だなぁと感じた
今日この頃でした( ˘ω˘ )
(引用:「ゆとりてら」Facebook)
「ゆとりてら」とは、戸塚さんが考えた「ゆとり+レジリエンス(※)・リテラシーアップ」の造語である。
言葉の響きがお寺のようなので、戸塚さんは自らをそこで暮らすことを生業とする「住職」であると位置づけている。住むことが職である、とするその考えが、人との対話を中心にイメージする今の自分の肩書としてもしっくり来ているという。
サラリーマンとして食い扶持を稼ぎつつ、ゆとりてらで住職として暮らす戸塚さんの日常は、パラレルキャリアという言葉からイメージされる多忙で精力的な活動からは程遠く穏やかだ。
※レジリエンス=回復を前提とした持続可能な考え方や行動をすること。
どうやって生きていくか
戸塚さんがこのような取り組みを開始したのは、3.11東日本震災を経て自らの生き方を見直し始めたのがきっかけだ。
戸塚さんは小学生の頃から強度のゲーム依存症だった。ゲームの世界に没頭していた思春期を経て、社会人になってからは攻略本がないリアルな人間同士の関係性に悩みながらも、そこに強い興味を持ちはじめる。
とはいえ、仕事や会社組織に対するモチベーションは上がらない。会社に隷属することもなく、会社から持たされた名刺の肩書を上げていくことには情熱を傾ける気になれなかった。
サラリーマンとしてのキャリア向上にまい進できるタイプではなかった戸塚さんは、生活のために仕事はしっかりやるものの、そこに人生の意義を見出せない。かといって、仕事をして酒を飲んでNetflixを観ているような毎日には生き甲斐を感じられない。
自分が価値を感じられることは何なのだろうかと、300坪の農地を耕して家庭菜園にしたり、物販事業など様々なことに取り組んでみた。残念ながらそれらに自分が人生をかけてやりたいほどの興味は湧かなかった。
しかし、戸塚さんは以前から「人」に興味があった。何故か人から相談を持ち掛けられる機会が多く、人の話を聞くのが好きだった。多い時では一年365日のうち276日を人との対話に費やしたほどで、その中から「人が行動する動機は何か」を考えるようになり、それが金や欲のためだけではないことに気づく。
攻略本があるゲームと、リアルな人間社会との違いを興味深く見つめてきた戸塚さんに、ゆとりてらの発想が芽生え始める。さまざまな悩みを抱えた人が、自分に会いに来てくれる場所があればいいと考えるようになった。
古民家との出会い
戸塚さんは、ちょうど住宅取得の適齢期でもあった2年ほど前から、ゆとりてらの構想にマッチする安い中古住宅を求めて、地元の知人が運営する不動産販売店「空き家買取専科」に物件探しを依頼した。
店名通り地域の古民家をリノベーションした物件を販売しており、イメージに近い物件が探せそうだったからだ。
かつて一年に多くの人が戸塚さんに悩み事の相談をしていたように、今でも多くの若者がゆとりてらに集まる。なぜそんなに多くの人が戸塚さんに相談を持ちかけるのか。その理由を、ゆとりてらの物件探しを手伝い、ゆとりてらのイベントにすっかりハマっている前出の空き家買取専科の担当者が以下のように説明する。
穏やかな性格の戸塚さんは、人の話を否定しない。人にはそれぞれの考え方があり、戸塚さんはそれをひとまず全面的に受け入れて聞く。相談した人は安心を覚え、さらに紹介が紹介を呼び、多くの若者が戸塚さんのもとを訪れるようになっていった。
ゆとりてら構想の実体化に関しても、戸塚さんのユルさが発揮された。広大な敷地と多くの設備が必要なゆとりてらを実現するには、一般的には高額な費用と精力的な行動力が必要であると思われがちだ。普通の若者であれば、資産もないサラリーマンの自分には無理だとあきらめるかもしれない。
しかし戸塚さんは焦ることなく飄々と物件を見て回り、ついには掘り出し物、というより誰も手を出さなかった現在の荒れ果てた古民家に行き当たった。
他の人であれば買い取って整備することなど思いもよらないほど荒れており、一見すると素人には手が出せないその古民家は、戸塚さんのユルいDIYで少しずつ現在のゆとりてらへと変貌していった。
アクティブでもポジティブでもなく、どちらかというと陰キャの、しかし不思議と人が集まってくる戸塚さんのパラレルキャリアは、こうして走り始めた。
ゆとりてらの未来
ゆとりてらで行うイベントへの参加費は、各自のお気持ち制度だ。参加者は毎回、思い思いの金額をゆとりてらに置いていく。
戸塚さんは毎月の会計を開示しており、これまでは改修費や管理費に対して収入が少なく、毎月のように赤字を垂れ流していたが、2022年5月にはついに単月で黒字を計上した。
もし私たちが本業とは別のキャリアを築く場合にも、経済面は非常に重要である。収入を得るために始めたわけではないとしても、それでも赤字のままでは立ち行かなくなる。パラレルキャリアを持続可能なものにするためにも、収支は赤字であってはならない。
会社に捧げない人生を歩む自分の、名刺には表れない本当の肩書は何なのか、そして自分は社会にどんな価値を提供できるのか。その問いに対する答えを探して、戸塚さんはこれからも「ゆとりてらの住職」としてのパラレルキャリアをゆる~く生きる。
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玉木 潤一郎(経営者 株式会社SweetsInvestment 代表取締役)
建築、小売店、飲食業、介護施設、不動産など異業種で3社の代表取締役を兼任。一般社団法人起業家育成協会を発足し、若手経営者を対象に事業多角化研究会を主宰する。起業から収益化までの実践と、地方の中小企業の再生・事業多角化の実践をテーマに、地方自治体や各種団体からの依頼でセミナー・コンサルティングの実績多数。
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編集部より:この記事は「シェアーズカフェ・オンライン」2022年7月8日のエントリーより転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はシェアーズカフェ・オンラインをご覧ください。