他人を不快にさせることではなく、対話なく不快さを排除しようとすることが「悪」である

與那覇 潤

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安倍晋三元首相が7月8日、参院選の遊説先だった奈良で狙撃され亡くなった。ご冥福をお祈りしたい。

私は昔、歴史学者をしていた時期があって、安倍氏とはその歴史認識が正反対であったから、彼の政権を支持したことがない。それでも今回、特にこのアゴラで筆をとることにしたのは、こうした許されざる凶行の背景に、近年の日本社会に瀰漫してきた危険な潮流を感じざるを得なかったからだ。

すでに多くの指摘がなされているとおり、暗殺に代表される「テロル」には、究極のキャンセル・カルチャーとしての側面がある。つまり、自らにとって不快な存在を見かけたとき、説得や交渉を試みるなり、棲み分けを模索するなりといった共存への努力を一切することなく、絶対悪のレッテルを貼ってこの世から抹消しようとする志向は共通だ。

安倍氏は平成晩期の2012年12月に総理大臣に返り咲き、令和初頭の20年9月まで務めた。あまりにも長かったその執政は、いつしか国民の立場を「安倍支持」と「反アベ」に二分し、同時代への不満があるならとりあえず「アベ」のせいにして叩けばいいといった風潮が、メディアやSNSで生まれていった。

靖国神社参拝(2013年)や集団的自衛権の行使を解禁する安全保障法制(2015年)など、賛否が割れる施策を押し通す政権だったことは事実だ。しかし、それらの問題点を冷静に指摘するのではなく、単に口汚く為政者の「アベ」をこき下ろす芸風だけで、あたかも有識者のような顔をする言論人が長らく闊歩してきたことを、覚えていない人はいない。

時には誰の目にも明白に「反安倍政権」を掲げた運動であっても、「思想的には十分な反アベになっていない」として、批判されるような事態さえ起きていた。いわば、プロレタリアートの解放を掲げる運動の内部に、「十分にブルジョワ性を払拭していない」者を見出しては粛清してきた、新左翼の内ゲバの意図せざる反復である。

成員が多様である以上、私たちの社会は常に意見や感性の分裂を孕む。もしそうした亀裂が一切ないとしたら、それは単に、その社会が全体主義に陥っているだけだ。だから私たちは自分と「違う」人たちを見たとき、まずは対話を呼びかけ、結果としてすれ違いに終わったとしても、暴力で相手を排除してはならない。

言い方を変えれば、ダイバーシティ(多様性)が尊重される社会か否かは、その社会がどれだけ「ネガティブな」存在を許容しているかで決まる。コイツわかってないな、鬱陶しいな、不快だな、と感じる相手と、どこまで一緒にいることができるか。それこそが、「私はマイノリティでも才能があってポジティブ」といったタレントをメディアが囃すだけのキラキラしたダイバーシティとは異なる、本当の意味での寛容さの尺度だ。

しかし、これに反して、あたかも自分の立場だけが「マイノリティ」の味方であるかのように思い上がり、彼ら彼女らが少しでも不快さを覚えたなら、その感覚を錦の御旗にすることで「不快な存在」を社会から抹消しようとする思想が台頭している。いわゆるキャンセル・カルチャーの潮流である。

安倍氏へのテロが起きる約1週間前、7月2日の朝日新聞(朝刊)は3名の識者を招いて、このキャンセル・カルチャーの当否をめぐる議論を掲載した。2名は明快にそうした風潮の非を説いたが、1名は「キャンセル・カルチャーという呼称自体に問題があり、むしろマイノリティの正当な抗議として捉えるべきだ」(大意)とする立場を表明している。

当該の人物の主張は、紙面と異なり文字数の制約を受けないオンライン版(有料記事)で、より詳細に展開されている。たとえば確かに抑圧されたマイノリティの抗議ではあったが、明らかに非合法な暴力も伴っていた先日の米国の運動について、彼はこのように述べる。

先住民虐殺や奴隷制維持に関与してきた人物の銅像を……壊したケースもあった。『過去を今の基準で裁くのは行きすぎだ』という声も上がりました。しかし、マイノリティーにとっては、銅像が日常的な生活空間にあることが現在進行形の苦痛であったわけです。それは、決して『過去』ではない。

こうした主張に沿うなら、まだ銅像にすらなっていない直近の為政者が――その人は歴史認識や憲法解釈をめぐって国論を二分した人物でもあった――いまも政界で実力を振るい、選挙戦の花形弁士として生活空間に姿を現すことを、「現在進行形の苦痛」として感じるマイノリティはいくらもいるであろう。しかし、それが暴力での排除を正当化する理由になるだろうか?

なるはずがない。こうした詭弁を弄する、一見すると「学識のある」人びと(当該の識者は著名大学の教授でアメリカ研究の専門家だ)が織りなすキャンセル容認の文化を、私たちは拒絶し批判するときが来ている。

本サイトの読者はご存じかも知れないが、私は2021年に発生したあるキャンセル・カルチャーの事例について、総計14回にわたり連載し、その不当性を論証してきた。そちらを読んでくださった方であれば、たとえば以下のツイートに示された1枚のスクリーンショットを見るだけで、同じ問題が通底していることを理解していただけると思う。

牽強付会ではない証拠に、こうした界隈においては、実質的に「テロが起きるのもしかたない」と容認するに等しい言説すら、拡散が始まっているありさまだ。

私たちの社会は、多様性を守らなければならない。そのために「キャンセル」されるべき存在がもしいるとしたら、それは私たちを不快にさせる者ではない。不快さを理由に、対話なく相手を排除しようと試みる者たちこそが、法に基づいて取り締まられなくてはならない。

相手はマジョリティだ、権力者だといった事実は、法に基づかない排除を免罪する理由にはならない。

私たちは自らの決意と勇気によって、ネガティブさと共にあろうとしない風潮から距離を取り、愉快でない相手とも対話のある社会を守っていこう。それこそが安倍氏の政権に対する評価や党派を超えて、凶弾に倒れた彼の死を弔う作法だと考える。

與那覇 潤
評論家。歴史学者時代の代表作に『中国化する日本』(2011年。現在は文春文庫)、最新刊に『過剰可視化社会』(2022年、PHP新書)。自身の闘病体験から、大学や学界の機能不全の理由を探った『知性は死なない』(原著2018年)の増補文庫版が21年11月に発売された。他に『平成史―昨日の世界のすべて』(文藝春秋)など。