驚愕の事件、安倍晋三氏の死去に想うこと

本来であれば「今週のつぶやき」をお送りするところですが、重大な事件が起きたことを鑑み、「今週のつぶやき」は明日、お届けします。

まずは安倍晋三氏のご逝去に対し、心よりお悔やみ申し上げます。

事件の現時点までの詳細内容は既に報道されている通りですのでこの事件を受けて思うことを記してみます。

会見する安倍晋三元首相(令和2年 首相官邸HPから)

城山三郎氏の「男子の本懐」という小説があります。戦前の首相、浜口雄幸が不況脱出のために金解禁の断行をするも東京駅のホームで暴漢に撃たれます。生死をさまよった後、無理を押して国会に登壇し、首相としての使命に燃えたという実話を小説にしたものです。

私は一報を受けてはっと頭によぎったのがこの「本懐」という言葉です。「もとから抱いていた願い」という意味で、「本懐を遂げる」といった使い方をします。安倍氏は首相在任中に数多くの思いを遂げてきたと思いますが、本懐という意味では憲法改正であり、強くしなやかな日本を作るということだったと想像しています。それを遂げることは叶いませんでした。ましてや、それが選挙の応援演説中に一瞬にして断たれたのです。政治家の一家に生まれ、幼少の時から政治が体に染み込み、高い所望と実行力を持ち、52歳で首相につき、連続在任日数2522日、アベノミクスから外交まで政治的手腕は圧倒する能力をお持ちであった安部氏にとってこれはあまりにも厳しすぎる運命ではないでしょうか?

犯人像が今一つはっきりしません。本稿を書いている時点で宗教団体云々という話も聞こえてきますが、つじつまが合いません。ただ、気になるのは政治犯ではなかった可能性があるとすれば、公安はこの男をマークをしていなかったことが考えられます。そのような人物が自作の銃で至近距離から狙撃することが可能だったとすれば安全神話のある日本の信頼はがた落ちになってしまいます。

もちろん、選挙期間中はあらゆる政治家が全国を遊説することもあり、警察やSPなど警備が手薄になりやすく、人も集積し、犯行に及びやすいという弱点はあります。それにしてもテレビの画像を見る限り、背後がスカスカだった点はどう見ても警備上のそしりを免れないでしょう。

日本は国際会議も多く、次のG7は広島で開催されます。各国首脳は当然ながら「大丈夫なのか?」と思うはずです。ましては政治犯や思想犯が警備をかいくぐって犯行に及んだという感じには見えず、「この男は誰なんだ」という取り調べをしていると察します。とすれば似たような犯行はいつ何処ででも起きるというロジックになり、日本の弱体化の批判に甘んじるしかありません。

当然、この批判は政権にも及ぶことになります。「ねじが緩んでいたのではないか」と。

犯人像に関してもう一点、気になる点があります。何処まで深い信念をもって犯行に及んだのかさっぱりわからないのですが、怨嗟、憎悪という重いものではなく、案外軽い気持ちではなかったかという気がしています。最近の社会事件に於いて簡単に犯罪に手を染め、殺人に及ぶケースが多くなっています。これは心理学、精神医学および社会学的に十分な分析、検証を行い、社会構造の変化とその対応に踏み込む必要があります。

個人的には自分の小さな欲望の達成とか、自己中心的思想といった一種のミーイズムが現代社会において以前にも増して強くなってきたとみています。昔は社会活動において一種の共同体意識があり、人と人が物理的につながっていたものの今はコロナがあったこともあり、スマホとオンラインで多くを達成でき、個人主義を増長する社会になっています。これは人による監視行動が弱まることを意味し、近所の人たちも無関心となる都市型の生活習慣が日本全国にまん延していることが要因ではないかと考えています。

思想犯でもなく、衝撃的行動というほどでもなく、なんとなくやったらできたとすればこれほど恐ろしいことはありません。日本の報道は死去といったやわらかい表現ですが、海外の報道は厳しく断じる「暗殺」という書き方です。この表現の違い一つにとっても日本のこの事件の受け止め方はまだ優しいと感じます。いまだ数少ない情報を基に想像するだけでもこれを驚愕と言わずしてなんと言えるのか、と思います。

日本の歴史に残るこの事件、我々は決して風化させてはなりません。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2022年7月9日の記事より転載させていただきました。