安倍晋三・元内閣総理大臣が遭難されたことに、心から哀悼の意を表する。安全保障関連法案の整備、憲法改正の推進、また小泉内閣で拉致被害者帰国に尽力するなど、多くの功績ある政治家を失った。
犯人の供述を、朝日新聞デジタルは以下のように伝えている。
特定の宗教団体名を挙げ、「過去に家族が入信し、金を納めて生活が苦しくなった」と説明していることもわかった。「団体トップを狙おうとしたが難しく、安倍氏は(その団体と)つながりがあると思った。(安倍氏を)殺そうと思った」とも話しており、県警は、宗教団体への恨みが安倍氏への一方的な殺意につながったとみている
さらに文春オンラインも「母はある宗教団体に所属していて、山上容疑者もその影響を受けて会員となりましたが、ほどなくして脱会。その後、山上容疑者は母の宗教団体の分派の団体に所属していたようです」としている。
犯人にこのような背景があったらしいことが報道され、SNSやネットニュースのコメント欄などで宗教に関する書き込みが散見されるようになった。そのなかで目についたのが次のようなものである。
外国人に言って見たら分かるが、社会主義国でもない国で、無宗教なのは珍しいから、逆に不思議がられる
日本が平和なのは、無宗教の人が多いからだと思う。宗教と争いは切っても切れないから
たしかに「何か宗教を持っていますか」と問われて「特にありません」と答える人は多いだろう。私自身も信仰心は薄い方である。多くの日本人はそれほど宗教と関わりのない生活をしているように見え、「○○教徒である」とか「××教団の信徒である」と自認する人の方が珍しいのではないだろうか。
しかし、自宅に仏壇や神棚があるひとは少なくない(我が家にも神棚はある)。また、何かのおりに神社を詣でたり、寺院で手を合わせたりということは、ほとんどの人が経験していると思われる。2020年の正月三が日に明治神宮を参拝した人は約318万人にのぼる。イスラム教の大巡礼(ハッジ)の際に聖地メッカを訪れる巡礼者が約250万人であることと比較すれば 、その多さがわかるだろう。
神社仏閣の参拝を宗教儀式と明確に認識して行なう人や、神道・仏教を信仰していると自覚する人は少ないかも知れないが、現代の我が国においても、宗教は社会から隔絶した特殊なものではなく、多くの人々がさまざまな形で、また自覚的であるか否かは別として、何らかの宗教にかかわっているのである。
共同通信によれば、マレーシアの閣僚が日本人会主催の盆踊り大会に参加しないようイスラム教徒に呼びかけ、論争が続いているそうである。マレーシアの国教であるイスラム教は一神教のため、仏教との関わりがあるとされる盆踊りへの参加が「多神教に加担しかねない」との主張である。
こうした宗教上の論争は理解しにくいこともあるが、それは「日本人が無宗教だから」ではなく、「我が国の宗教風土が一神教でなく多神教を基礎としており、かつ極めて世俗的だから」と考えるべきだろう。故・田上穰司教授(憲法学)は政教分離について説明するなかで、神道を念頭に次のように述べておられる。
人と人との関係における道徳律に近い宗教で、しかも絶対の神を信ずるものでない場合……国家の非権力的な関与を拒む理由はない。……多神教の国においては、信仰と習俗的規律の区別が明瞭でないから、政治と宗教の分離が容易でないのみならず、正当な理由を求め難い
あるいは、戦前の「現人神」思想を「日本の伝統には存在しない特異なイデオロギー」、「《八百万の神々》の文化にとって《唯一絶対》の現人神などという観念は明らかに異質なもの」と指摘した上で、多神教的な風土における政教分離のあり方に疑問を呈する説もある。
はたして神社が西洋的な意味での-それゆえ「政教分離」の対象となりうる-「宗教」か、となると問題はある。というのも、多くの宗教は各自の教義をもつが、神社神道は単なる祭祀であって教義がないからである。(略)一神教の土壌において痛切にこの問題が発生するのであって、そうではない日本の土壌で同一レベルでこの問題を論じることがはたして適切なのか(小林昭三・土居靖美編著『日本国憲法論』)
いずれにしても「中野駅前大盆踊り大会」でBon Joviの「Livin’ On A Prayer」に合わせて鹿児島おはらを踊っている人々は、盆踊りの宗教性を(知識としては知っていても)ほとんど認識してはいないだろう。
マレーシア日本人会もおそらく仏教行事として行なってはおらず、布教の意図もないはずだ。しかし、ある特定の神を信仰する一神教においては、「お盆にあの世から帰って来る死者を迎える」という宗教的背景を持つ盆踊りが大きな問題になり得るのである。
我が国には多くの神社仏閣が存在し、お宮参り・結婚式・葬式といった人生の節目や初詣・お盆など季節の行事で訪れる人は多い。受験・就職などの「神頼み」も行なわれる。日本人は無宗教なのではなく、こうした宗教的なことを行ないながら自らを「無宗教と考える」ことが、世界的には珍しいあり方なのだろう。
教義のない神社神道や江戸時代の寺請制度によって僧侶が戸籍吏に堕した経験のある仏教は、人々を衝き動かすほどの信仰の対象にはならず、これが我が国の社会がいまも極めて世俗的である理由のひとつと考えられよう。
このような日本の宗教風土の中で、特定の神を信仰し、厳しい教義を持つ宗教(特に新宗教や既成宗教の分派)に関係する不祥事が起きると「宗教ってこわいね」という話になるのだが、これは「宗教」そのものへの恐れであるよりは、宗教に束縛されコントロールされる「厳格さ」に気味悪さを感じるということなのだろう。