山口二郎氏は本当に「叩き斬ってやる」と言ったのかを検証する

田村 和広

安倍晋三元総理のご冥福をお祈り申し上げます。

7月12日、安倍元総理の告別式が行われました。大勢の人が見送る様子がテレビの映像を通じて確認でき、広く国民に親しまれていたことを改めて実感しました。私は、心からの感謝を贈ります。

安倍晋三元総理は、自らの信じる安全保障政策や経済政策を推進して行きました。そのためそれに賛同しない勢力からは強い抵抗も受け、時に激烈な言葉で誹謗中傷さえも浴びせられてもおりました。

そんな安倍元総理が凶弾によって斃された今、過激な言葉で論難していた人々は逆に憎悪の対象となりがちです。また手のひらを返すかのように「暴力はいけない」「暴力的な行為の扇動を意図していない」と言っておりますが、自己保身に狼狽する様が伺われ、人物としての底が見えてしまうでしょう。

その象徴的な人物として山口二郎氏が注目され、山口氏のものとされる「(安倍を)叩き斬ってやる」という発言が多くの方に引用されております。

私は、「まさか大学教授という身分のある山口氏がそんなことを言うわけがないだろう。仮に言っていたとしても何かの文脈からの切り取りではないか。」と考えていましたが、実際そのシーンを確認したことはありませんでした。

そこで、一体どんなコンテクストで飛び出した発言だったのか、あらためて確認しました。幸い、ユーチューブに当該発言の全貌がノーカットで収録された動画がありました。

8.30大行動 国会正門前 山口二郎教授 – YouTube

これを文字起こししましたので、一緒に確認して行きます。なお、映像が作り物かどうか、私には判断が付きかねます。しかし問題発言部分を別の動画と照らしてみても違いは読み取れないため、その可能性は低いと考えました。(当該動画の取り下げや停止がなされる可能性もありますので視聴はお早めに。)以下、当該動画が正しいと前提を置いた場合の記録です。

発言はいつどこでなされたのか

映像によればこれは2015年8月30日、国会議事堂前で行われた集会ということです。多数の聴衆の存在が映像から確認できます。

動画の冒頭には「戦争法案廃案!」「安倍政権退陣!」と銘打ってあります。全部で2分16秒の短い動画内での発言です。

文字起こしした発言部分を“”で囲みました。また、読みやすいように3つのパラグラフで区切って、筆者の読解を加えて行きます。 

第一パラグラフ

司会:続きまして、立憲デモクラシーの会 法政大学教授 山口二郎さんです。お願いします。

山口二郎氏:みなさんこんにちは。山口です。
安倍首相は、「この安保法制、国民の生命の安全のため」と言っていますが、こんなものは本当に嘘っぱち。まさに生来の詐欺師が誠実を語るようなものであります。安倍政権は、国民の生命安全なんて、これっぽっちも考えていない。(聴衆:そうだー!)それが何より証拠には先週、福島原発事故の被災者に対する支援の縮小を閣議決定しました。「線量が下がったからもう帰れ。これ以上逃げるのはお前らの勝手だからサポートはしない。」これは本当に人でなしの所業です。(聴衆:そうだー!)

それでは読解して行きます。

山口氏は冒頭、安倍総理を“嘘つき”に仕立てる作業に着手します。「生来の詐欺師が誠実を語るようなもの」という比喩で聴衆のイメージを膨らませ、「それが何より証拠には(≒その証拠に)」とその主張の根拠を添付しています。少し整理します。

主張:安倍首相の「この安保法制、国民の生命の安全のため」という主張は嘘である。
根拠:なぜなら、安倍政権は国民の生命安全などこれっぽっちも考えていないから。

これは形式的には論理的な主張ですが、内容的には強い疑問の残る主張です。

ここで、たとえば「逆に他国の紛争に巻き込まれるから」や「国民である自衛隊員の危険が増大するから」など、直接安保法制に関する「国民の生命安全に対する脅威を増大させる」論拠をあげていれば、妥当性はともかく内容的にも論理的な主張でした。

しかし根拠として挙げたのが再び根拠のない主観的な「政権の集団思考の性質」についての主張です。政権を構成する人員が内心で何を考えているかは、本人達以外には伺い知れないので、この主観的な思い込みだけでは証拠になりえません。そこで、その主張「安倍政権は国民の生命安全など考えていない」を支える論拠が必要となります。それが次の主張と根拠です。

主張:安倍政権は国民の生命安全などこれっぽっちも考えていない。
根拠:なぜなら、福島原発事故の被災者に対する支援の縮小を閣議決定した。(言い換えるならば)「線量が下がったからもう帰れ。これ以上逃げるのはお前らの勝手だからサポートはしない」ということだ。

読解します。

まず、一事例を示して「これっぽっちも考えていない」と全否定することは論理的な主張ではありません。その上、当該一事例もそのまま是認できません。つまり、復興作業の進捗や科学的な評価に基づく避難範囲や程度の見直しなど、状況変化を十分考慮したうえで決定された支援の内容を、根拠なく「人でなしの所業」と断定するのは個人の主観的な見方に過ぎません。しかもあえて品性の低い言葉遣いで言い換えて推量した政府の「思考経路」は、一定の価値観に基づいて偏っており、広く受け入れられるかどうかに疑義があります。

要するに、安倍首相や安倍政権を論難する一連の主張は非形式的誤謬であり、主張の目的であった「安倍氏の悪魔化」に失敗しております。そして山口氏による聴衆のアジテーションはクライマックスに達します。問題部分です。

第二パラグラフ

山口:昔、時代劇で萬屋錦之介が悪者を退治するときに、「てめーら人間じゃねえ!叩き斬ってやる!」と叫びました。私も同じ気持ち。もちろん暴力を使うわけにはいきませんが、安倍に言いたい。お前は人間じゃない!叩き斬ってやる!民主主義の仕組みを使って、叩き斬りましょう!叩きのめしましょう。

(※ このパラグラフにおける山口氏発言の「!」の後には、聴衆の「そうだ!」という合いの手が入っている。)

ここでは、勧善懲悪が明瞭な時代劇を引き合いに出し、暗に「自分たちの側に正義があり、安倍首相は悪の存在である」というイメージを聴衆たちに想起させています。その上で「もちろん暴力を使うわけにはいきませんが」とリスクヘッジの枕詞を付けつつ、明瞭に発信します。以下焦点となる発言を抜粋のうえ検証します。

問題発言1:「安倍に言いたい。お前は人間じゃない!叩き斬ってやる!」

これは完全に安倍晋三氏個人に向けた人格攻撃です。この前後にどんな文言を添えようが人格攻撃ではないと釈明することは不可能です。まず「人間ではない」と主張する根拠が前段の論証であるならば全く妥当性を見出せない断定です。続く「叩き斬ってやる」は言われた側に殺傷の予告と受け止められたとしても、仕方がないでしょう。受け止め方は十人十色ですが、「暴力を使うわけにはいきませんが」と前置きしたからと言って、言われた側の精神的なダメージや恐怖感はほとんど緩和されないでしょう。

問題発言2:「民主主義の仕組みを使って、叩き斬りましょう!叩きのめしましょう。」

これも比喩表現のつもりでしょう。政府に対してこれほど攻撃的な言辞が許されるのはまさに民主主義が日本で機能しており、彼らがそれを満喫している証拠です。しかし、自らは安全な場所から、絶対反撃してこないことがわかっている政府に対して、苛烈な言葉で罵るその様は、私から見ると卑怯な行いの極みに感じます。

発言資格に訴える論証(「お前が言うな」)や権威主義は個人的には忌避する話法ですが、それを使って人格攻撃する人に対しては敢えて適用します。

人を教導する立場にある大学教授が、多数の聴衆の面前で、誤謬に基づく人格攻撃や煽情的な言辞を声高に叫び、聴衆を扇動することこそ「人でなしの所業」なのではないでしょうか。「殺人教唆的な言葉をぶつけられる側の心を慮らない」その言動は、本当に人間らしいです。人間の暗黒面を晒しているという意味で。

第三パラグラフ

切り取りとならないために、最後まで文字起こしを続行しますが、以降の発言にあまり深い意味はありません。

山口:我々のこの行動、確実に、与党の政治家を圧迫し、縛っています。与党がやりたいこと、次から次へと先送りしてこの戦争法案に最後の望みをかけていますが、我々の力でこの安倍政権の企みを粉砕し、安倍政権の退陣、これを勝ち取るために、今日の二倍三倍の力でもって、一層戦いを続けていこうではありませんか。(不鮮明な声援)
皆さんのこれからの努力、我々の協力をお誓い申し上げてわたくしの挨拶と致します。ありがとうございました。(拍手)

司会:ありがとうございました。民主主義の刀で叩き斬りましょう。ありがとうございました。

まとめ

1945年8月15日を境に、日本政府はいくら罵っても反撃してこない存在になりました。それを主導・悪用したのは新聞やNHKラジオでした。しかし、2012年ごろまでのどこかでそのピークはうちました。そのことは、旧来の流れをくむ野党(旧民主党、旧社会党ほか)が陥っている退勢の根本原因ですが、そのことは別の機会に触れて行きます。

私は、いわれなき非難で人をおとしめる言動を残念に思います。それは自分と真逆の考え方の人に対する非難であっても、です。政権を支持するのも批判するのも尊重しますが、その場合には事実に基づく理性的なものであることを希望します。

逆に、攻撃的な政治発言には全く賛同できませんが、だからといってその発言者を事実に基づかない藁人形化で非難することもまた同様に賛同できません。

山口氏は確かに「叩き斬ってやる」という倫理的に問題の多い発言(失言)をしていました。この事実は、これからも氏に付き纏うでしょう。相手に深刻な精神的ダメージも与えかねない“呪詛”を唱えてしまったのですから、自己責任でやむを得ません。しかし文脈から考えて決して「人の生物的な死」を願ったものではないとも思われます。

殊更に氏を論難し、集団による人格攻撃(私刑)に堕することのないよう祈ります。