安倍元総理襲撃事件の容疑者の供述に関連して、フジテレビ「めざまし8」でカズレーザー氏が次のように発言したそうだ。
問題なのは、国民からの理解。今の政府が置かれている状況は、政教分離と真逆な点が問題になっている、疑われている。社会通念に反している特定の宗教に対する規制を同時に進めないと、こういう葬儀に禍根を残す(引用者注:「真逆」は近年使われるようになった俗な表現であり「正反対」というべきだろう)
安倍氏の功績を考慮すれば国葬が相当であろうが、カズレーザー氏の発言末尾の「葬儀に禍根を残す」という懸念はその通りである。ただし、発言の前半部分は政教分離についての誤解に基づいている。
政教分離とは「信教の自由を保障する目的で、国家と特定の宗教団体との過度な関わり合いを規制する」ものである。こう言うと「まさに特定の宗教団体(旧統一教会)との過度な関わり合いがあったではないか!」という反論が予想される。安倍氏遭難事件に霊感商法などで問題を起こしている旧統一教会が関わっているので、そこばかりに目が向けられがちだが、そうではない。
いったん旧統一教会から離れて、伝統的な神道・仏教・キリスト教などに目を向けてみよう。建築物に文化的価値のある神社・寺院・キリスト教会が、文化財保護に理解のある政党を支持し献金することに問題はあるだろうか。あるいは「信教の自由」やそれこそ「政教分離」のあり方に関して特定の政党を支持することもあるだろう。
忘れてならないのは神社・寺院・キリスト教会も(そしてその他の新宗教も)社会的存在であり、個々の構成員が主権者であること、そして我が国では表現の自由が保障されていることである。
仮に「個人としての支持・献金のみを認める」と定めたところで、信徒がこぞって支持・献金すれば規制の意味はなくなるし、宗教法人とその他の法人とを差別することに合理性があるとも思えない。法人としての一般企業のなかにも、犯罪的な意図で政党に近づこうとするものもあるからだ。
「宗教は唯一神や教祖、教義の下で一体となって行動するから危険なのだ」という意見もあろうが、多神教で教祖も教義もない神社神道には当てはまらない。我が国における伝統仏教や伝統的なキリスト教会にそれほどの求心力があるとも思えない。
要するに、今回の件で問題となっているのは宗教一般ではなく「カルト宗教」ないし「宗教を標榜する詐欺集団」(カズレーザー氏の言葉を借りれば「社会通念に反する」団体)であり、そうした反社会性を持つ集団と政党・政治家との関わりなのである。「政教分離」とはあまり関係がない。
以上より、カズレーザー氏の発言に対する所感をまとめると「政府(というより自民党だろうが)と宗教団体が一定の関係を持つことには、問題がない」「社会的に問題のある宗教との関わりが、国葬の実施にまで疑念を抱かせかねないのは事実である」ということになる。
では、「社会通念に反している特定の宗教に対する規制」を進めるべきだとする発言はどうだろうか。戦前から戦後にかけて活躍した憲法学者・美濃部達吉教授は「偽似宗教」について以下のように述べておられる。
新憲法の下においても、宗教の仮面を装いその実人身を蠱惑し公安を紊乱する荒唐無稽の邪説を拡布する者があった場合に……自由に放任せねばならないものと解してはならぬ。……偽似宗教は……国家の権力を以てこれを禁絶することは、もとより許さるるところでなければならぬ(『新憲法概論』)
「カルト宗教」の被害を考えれば首肯したくもなるが、問題は「偽似宗教」であるか否かを誰がどのように判断するかである。
戦争末期の昭和19年、文部省教学局長が日本基督教団に対して「キリストの復活信仰は幼稚で奇怪な迷信であるから、これを信仰問答から除外せよ」と要求した事実がある。これは戦時下の特殊な例であるとしても、多くの宗教教義や儀式は自然科学的見地から「幼稚で奇怪な迷信」に見えないこともなく、これを広めて献金を集めるなどの行動は「人身を蠱惑し公安を紊乱する荒唐無稽の邪説」と決めつけられる恐れもある。
我が国が自由主義国家であり、信教の自由が憲法で保障されていることから、「特定の宗教に対する規制」は難しい。「カルトの定義が不明確」「宗教弾圧につながる」という話になるのである。
この点、カルト宗教問題で著名な紀藤正樹弁護士は「まず被害事例があり、それを帰納的にまとめたものがカルトである」とされている。特定の宗教・宗派を「カルト宗教」と認定するのは困難でも、実際の被害事例から反社会的な勧誘や献金の手法を導き出してこうした行動を規制し、あるいは事後的に救済することは可能だろう。
今回の事件は、安倍元首相の遭難という悲劇的な結果に至った。我が国が失ったものはあまりにも大きいが、禍転じて「福」とまでは言えずとも、何らかの教訓を導き出すことが絶対に必要である。社会的に問題のある集団(宗教団体に限らず)と政治家・政党・行政などとの関わり合いを見直す機会と考えなければならない。
ある教団の信徒が個人として特定政党を支持するのは自由だが、教団としての支援・献金を政党の側が謝絶するのも自由である。「支持者だから」「お世話になっているから」というセリフは暴対法以前にも耳にしたが、今となっては暴力団との関係をそのような言葉で正当化できない。宗教団体であろうとなかろうと、カズレーザー氏言うところの「社会通念に反している団体」との「おつきあい」を総点検する時期である。