ロシア・ウクライナ戦争は膠着状態にあるが、ウクライナ政府側に欧米諸国が供給する武器が入り始めた効果が出始めている。ウクライナ政府高官からは、年内に戦争を終結させたいという観測が出ているが、現実的な見通しだと感じる。
戦争の行方に懸念を持つのは当然だ。だが、即日停戦が実現していないからといって、取り乱したりはしないほうがいい。早期終結が望ましいことは当然だが、紛争当事者が、「時間軸」も導入して、停戦交渉までのプロセスを構想するのは、当然である。素人が、「今日すぐに戦争をやめないなら、永遠に戦い続けると言っているのと同じだ!」、と極東の島国から叫んでみるのは、滑稽な勘違いでしかない。
巷では紛争問題には素人の方々が、「ウクライナよ、降伏せよ!ウクライナよ、領土を割譲せよ!ウクライナよ、とにかくプーチンが喜ぶ『お土産』を渡して戦争を終わりにせよ!」、といった話だけを横行させているが、全く話にならない。
そもそもウクライナの人々は「ミンスクIIIは受け入れられない」と切実に感じている。それは実際の実体験をふまえてのことだ。それにもかかわらず、「お願いだ、嘘つきプーチンに騙されてくれ」、と命令してみたところで、聞くはずがない。「お土産論」ほど、現実離れした机上の空論は、ない。
理論的な話をすれば、たとえば、そもそも領土問題の解決と、停戦合意とは、別の位相の問題である。北方領土、竹島、尖閣諸島の領有権問題を抱えていても、日本は周辺国と戦争をしていない。カシミールやキプロスなど外国の事例も見てほしい。紛争を静的な図式で捉えた領域的考え方だけで捉え、「面」の話だけで永続的な平和を達成しようとするのは、単なる素人の世間話でしかない。
もちろん背景には、政治的な動きもあるだろう。従来から非常にロシアに近い筋の方々が、「ウクライナよ、プーチン大統領に『お土産』を渡せ、それだけが戦争終結の唯一の道だ」、と力説している。ウクライナに有利な停戦を阻止するためには、今が正念場、ということだろう。
前回の記事では、東郷和彦氏について書いた。
プーチンに「お土産」を渡すことだけが、戦争を終結させる唯一の道である、という典型的な「お土産論者」の主張である。
東郷氏が、かなり感情的になっている様子は、たとえば次のような文章から明らかだろう。
「プーチンにある程度『お土産』を渡した形で収めない限り、戦争は終わらない。長引けばウクライナ人がどんどん死ぬ。それでいいんですか」という声が出てきています。ノーム・チョムスキー(米の哲学者)、エマニュエル・トッド(仏の歴史学者)、キッシンジャー(米の元国務長官)、ミアシャイマー(米の国際政治学者)らです。
東郷氏が、恐らく権威主義の拍付けをするために世界の著名人と想定して参照している人名の中で、言語学者のチョムスキーや人口統計学者のトッドは、有名な著述家ではあるだろうが、専門家とは言えない。
ミアシャイマーは、確かに東郷氏の文意にあった国際政治学者である。ただし、そのミアシャイマーも、彼独自の「オフェンシブ・リアリズム」の理論の観点から、アメリカのワシントンDCの外交エリートを攻撃し続ける言説をしているに過ぎない。理論家ミアシャイマーが、プーチンに「お土産」を渡せ、という要求をしているというまとめは、衝撃的なまでに粗雑である。
東郷氏の言説で、さらにいっそう問題なのは、キッシンジャーへの言及である。キッシンジャーのダボス会議での発言が、一部のメディアで、ウクライナに領土の割譲を迫るものだったのではないか、という憶測を呼んだことは確かである。しかし、それが素人の無理解による誤解であることは、私が『フォーサイト』などで解説した通りである。
ところが、東郷氏は、私の解説を全否定する。そして、キッシンジャーは、プーチンに「お土産」を渡せと言っているのだ、と勝手なまとめをする。そうして、その根拠なき断定を、日本の雑誌媒体を通じて、大々的に情報薄弱者に対して宣伝し、印象操作の活動をしようとしている。
罪深いことである。
このたび、『シュピーゲル』誌に、キッシンジャー自身が、自分はウクライナに領土の割譲を迫ったことなどない、と明言する説明をしているインタビュー記事が出た。
ダボス会議のキッシンジャー発言を見て、キッシンジャーはウクライナに領土の割譲を迫ったのではないか、と感じた人びとは、僭越ながら、要するに素人である。素人は、キッシンジャーの言葉を読んだり聞いたりしても、キッシンジャーの言っていることを理解しないのである。恐縮だが、そういうことは、起こり得るだろう。だから私が解説もした。
しかし東郷和彦氏は、そうした私の解説などは全面否定する。それだけではない。キッシンジャー本人も否定して、キッシンジャーの名前だけを利用するのである。
そして、「キッシンジャー氏の真意は、プーチン大統領に『お土産』を渡せ、である」などと、日本の雑誌媒体を用いて、情報薄弱者向けに、宣伝し続けるのである。
罪深いことである。