聖なる牛の誤謬

藤原かずえ講座

聖なる牛の誤謬

Sacred cow fallacy

特定の言説に対し、聖なる存在への冒涜と認定して否定する

<説明>

ヒンドゥー教において牛は侵してはならない【神聖 sacred】な存在とされています。詭弁を使うマニピュレーターは、論敵の主張をこのような「聖なる存在」を冒涜する【タブー taboo】であるとこじつけて否定します。これを「聖なる牛の誤謬」と言います。この「聖なる存在」としては「正義」「自由」「民主主義」「法」「宗教」などがあると、Robert J. Gula は指摘しています。

この詭弁に騙されないためには、「聖なる存在」の妥当性を常に検証することが重要です。「聖なる存在」を安易に認定して思考の聖域 sanctuary】としてしまうことは、自由な主張を阻害する【沈黙の螺旋 spiral of silence】の形成を招き、社会を思考停止に陥らせます。

なお、マニピュレーターは、「聖なる存在」を自分の味方につけることで、自分が【道徳的優位 moral high ground】に立っているような印象を情報受信者に与えます。この印象操作に騙されないためには、道徳的な善悪は論理的な真偽とは無関係であることを常に意識することが必要です。

インターネットの世界にも「聖なる牛」は存在します。それは、右も左も関係なく、勇ましい言葉で倫理を振りかざしては味方と敵を作り善と悪を付与するインフルエンサー influencerです。【エコー・チェンバー echo chamber】に集まった信者は、その「聖なる牛」に200%迎合してサイバー・カスケード cyber cascadeを形成します。彼らは敵を攻撃することを目的化しているので、常に誰かを敵と認定しては攻撃を繰り返しています。さらに始末が悪いことに、彼らは自らの戦いを【聖戦 crusade】と考えているのです。

「アベガ―」はその典型的な例であり、「反アベ」という目的化した価値観の下に、道徳的優位に立っているつもりで、人間の尊厳など顧みることもなく、生前も死後も徹底的にスケープゴートである安倍氏とその関係者を罵り続けています。彼らは聖戦の戦士である「クルセイダーズ」ではなく、安倍氏との戦いの戦士である「アベノセイダーズ」なのです。

誤謬の形式

言説Sは聖なるものへの冒涜である。
したがって、言説Sは偽である。
※実際には言説Sは聖なるものとは言えない。

<例>

<例1>
後輩:先輩、それは違うと思うんですけど。
先輩:後輩の分際で先輩に逆らうな!間違っているのはお前だ。

<例2>
A:首相の政治は間違っている。
B:民主的選挙で選ばれた首相を批判するなど民主主義への冒涜だ。

<例3>
A:中国共産党はウイグルで人権弾圧を行っている。大問題だ。
B:君は中国との関係を悪くして世界平和を壊すつもりなのか。

上記の例におけて、「聖なるもの」はそれぞれ「先輩・後輩関係」「民主主義」「世界平和」であり、これらを絶対視することで無理やり不合理なタブーが作られ、誤った結論が導かれています。

<事例1>埋め立ては自然への冒涜

<事例1a>時事通信2010/04/25

■鳩山首相「埋め立ては自然への冒涜」

鳩山由紀夫首相は、米軍普天間飛行場の移設問題で、キャンプ・シュワブ沿岸部に移す現行案で決着させる可能性について「辺野古の海が埋め立てられることは自然に対する冒涜と感じる。受け入れるという話はあってはならない」と述べ、明確に否定した。

<事例1b>日本経済新聞2010/05/20

■首相、「埋め立ては自然への冒涜」発言を修正

鳩山由紀夫首相は、沖縄の米軍普天間基地移設問題に関して、米軍キャンプ・シュワブ沿岸部の埋め立てを「自然への冒涜」とした自らの発言について「埋め立てをむやみに行うことに対してそう発言した」と述べた。「むやみ」という言葉を使うことで、埋め立て工法を必ずしも排除しない考えを示したものだ。

鳩山首相は「自然への冒涜」という言葉で辺野古移設に反対しましたが、他の候補地への移設が不可能と判断すると「自然への冒涜」という言葉を引っ込めてしまいました。論理的に考えれば、鳩山首相は「自然への冒涜」を働いたか「言論への冒涜」を働いたかのいずれかです。

<事例2>自助・共助・公助

<事例2a>東京新聞 2020/09/15

■菅氏の描く社会像は… 「自助」優先、弱者置き去りの懸念

まずは、自分でできることは自分でやってみる。そして、地域や家族で助け合う。その上で、政府がセーフティーネットで守る」 菅(義偉)氏は14日、新総裁に選出された直後のあいさつで、目指す社会像として重ねて「自助・共助・公助」を掲げ、こう語った。(中略)自助の偏重は、弱者の置き去りにつながるのではないか―。野党は批判や警戒を強め、立憲民主党の枝野幸男代表は「政治家が自助と言ってはいけない。責任放棄だ。人生には、自助や共助でどうにもならない時がある。政治の役割は公助だ」と指摘。

福祉社会は自助・共助・公助によって成立しています。菅義偉首相が騙った内容は、「本来は、各個人が自分の責任と自分の努力で生きていければ一番いいんだけれども、ところが、人間社会というのは必ずしもそうはできない。そうした中でお互いの助け合いという共助の仕組みがある。そして、そういうやり方の中でもどうしても救えないケースが出てくるからこそ、最後のベースとしての生活保護が存在をしている」という自助・共助・公助の関係を説明する極めて常識的なものです。

これに対して、枝野氏は「弱者の置き去りにつながる」「政治家が自助と言ってはいけない」と批判しました。この批判が妥当であるか否かは、次の国会議論を見れば明らかです。

<事例2b>社会保障制度改革に関する両院合同会議 2005/07/29

福島豊議員(公明党):本日のテーマは、国民年金と生活保護の関係ということであります。(中略)最低保障年金を求める方は、言ってみれば、生活保護の代替の政策として導入するという御主張なんだろうなと私は思います。どこのだれが負担したかよくわからない最低保障年金、私はこれはいかがなものかと思います。

枝野幸男議員(民主党):今、福島先生のお話を伺っていて、あれっと思ったんですが、生活保護のかわりを年金にさせるのではないか、私はそれでいいんではないか。つまり、生活保護という仕組みは、本来は、なければない方が望ましい制度なんだ。まさに自助、共助、公助であって、本来は、各個人が自分の責任と自分の努力で生きていければ一番いいんだけれども、ところが、人間社会というのは必ずしもそうはできない。そうした中でお互いの助け合いという共助の仕組みがある。そして、そういうやり方の中でもどうしても救えないケースが出てくるからこそ、最後のベースとしての生活保護が存在をしているのであって、できるならば自助と共助の世界の中で、生活保護という仕組みを受ける人がいなくなる社会が我々の目指すべき社会なのではないか、私はそういうふうに思っています。

枝野議員にとっては「反自民」こそが「聖なるもの」なのです。

<事例3>憲法9条と非核三原則

<事例3a>しんぶん赤旗 2022年3月1日

■ウクライナ危機に乗じた核共有・9条改憲議論許されない

日本共産党の小池晃書記局長は28日、国会内で記者会見し、ロシアによるウクライナ侵略をふまえ、安倍晋三元首相らが核兵器の共有や憲法9条改定に言及していることへの受け止めを問われ、「ウクライナ危機に乗じて、憲法9条を変えよ、敵基地攻撃能力を持とう、核まで持とうというのは『力の論理』に力で応えるというやり方だ。これらを否定した国連憲章、憲法9条のもとで許されない議論だ」と指摘しました。

安倍元首相は27日のテレビ番組で核兵器の共有の議論をすべきだとの考えを示しています。小池氏は、「唯一の戦争被爆国の首相を務めた人物が、核兵器の保有を口が裂けても言うべきではない」と批判。「非核三原則は単なる政策ではなく国是であり、わが国の根本原則だ」として、「それを踏みにじる発言は断じて許されない」と批判しました。

少なくとも敵国が日本侵略を始めた段階で、敵基地攻撃能力は、国連憲章にも憲法9条にも違反していません。また非核三原則の是非を国会議員が議論するのは「言論の自由」に他なりません。主権者である国民の代表の議論に聖域は存在しないのです。

<事例3b>衆・予算委員会 2022/05/26

岸田内閣総理大臣非核三原則はしっかり守っていかなければならないと思っていますし、核共有について議論は考えておりません。こうした厳しい現実に対して、先ほど申し上げておりますように、我が国の防衛力を抜本的に強化するとともに、日米同盟の抑止力、対処力を向上していく、こうした方針で努力を続けていきたいと考えております。

泉健太議員(立憲民主党):先ほど自民党国防部会長の発言を引用させていただきましたけれども、実益が全くないことがはっきりした、出席議員から導入に前向きな発言は一切なくと、そういう御報告でありました。自民党さんでもそういう、ある意味結論になっている中で、核共有を掲げたり、非核三原則の見直しを唱えたり、そういう政党があるとしたら、私は、これは相当、広島、長崎の被爆者やその関係者を冒涜をしていると思いますし、そしてまた国民を危険にさらす考えだと思いますよ。こういう考え方は私は全く納得できないということもお伝えをしたいと思います。

第二次世界大戦時に米国が8000万人の日本国民を核で殺傷することは困難でしたが、2020年代に中国とロシアが1億2000万人の日本国民と3億3000万人の米国国民を核で殺傷することはいたって容易です。お花畑の非専門家が核抑止の議論を幼稚な認識で語り合う時代はもう終わりました。世界の平和と日本国民の生存権を守るには、議論の聖域をなくすことが必要不可欠です。

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