私は嘗て、「今日の森信三(272)」として次のようにツイートしたことがあります――謙遜という徳は、相手にたいする自分の分際というものを考えて、相手との真価の相違にしたがってわが身をかえりみ、さし出たところのないようにとわが身を処することをいうのであります。
森先生曰く「謙遜は、ひとり目上の人とか、ないしは同輩にたいして必要なばかりでなく、むしろそれらの場合以上に、目下の人にたいする場合に、必要な徳目だともいえ」るということです。
また先生は、「上位者にたいする心得の根本を一言で」次のように述べておられます――すべて上位者にたいしては、その人物の価値いかんに拘らず、唯その位置が自分より上だという故で、相手の地位相応の敬意を払わなければならぬ。
此の敬意を払うとは、言うべきことを言わないということではありません。それが目上の者に対する謙遜ということでもなく、「とにかく相手の地位にふさわしいだけの敬意を払うよう」努めながら、言うべきは基本きちっと言えば良いでしょう。要するに、自分の身の程を弁え「相手との真価の相違にしたがって」、言相応に、自分を今一度内省し見つめ直して行くということです。
上記は、礼儀の問題であります。目上であろうが同輩であろうが目下であろうが、きちっとした礼を以て人と接することが大事なのです。平たく言えば、地位等が如何なるものであったとしても相手を尊重する、「人間尊重の精神」ということです。
『論語』の中にも例えば、孔子の言「詩に興り、礼に立ち、楽に成る…『詩』の教育によって学問が始まり、礼儀によってわが身を立て、音楽によって人格が完成される」(泰伯第八の八)や、子夏の言「君子は敬して失なく、人と恭々(うやうや)しくして礼あらば、四海(しかい)の内は皆兄弟(けいてい)たり…君子は慎み深く過ちを犯さず、人に対して謙虚で礼儀正しくしていれば、全世界の人はみな兄弟です」(顔淵第十二の五)があります。
「礼に過ぎれば諂(へつら)いとなる」(伊達政宗五常訓)とも言われますが、常日頃から人間尊重の精神に根差し礼を以て人と接している人は、媚び諂うようなことにはならないでしょう。最後に本投稿の締めとして、森先生の次の言葉を紹介しておきます――謙遜ということは、その人が内に確固たるものを持っていなくては、出来ないことではないかということです。言いかえれば、人は自ら信ずるところがあってこそ、はじめて真に謙遜にもなり得ると思うのです。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2022年7月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。