フィリピンのラモス元大統領(在任:92年6月30日〜98年6月30日)が7月31日、94歳の長寿を全うし、天に召された。こんな表現するのは、彼がフィリピン唯一のプロテスタント(メソジスト派)の大統領だからだ。新型コロナに感染し、入院中だったそうだが、コロナ死とされる多くの高齢者と同様、コロナは引き金に過ぎなかったのではなかろうか。本稿では筆者の拙いフィリピン体験について述べたい。
前厄の年に突然「大人の喘息」に罹り、満員電車の通勤が敵わなくなった筆者は、94年初から職住接近した地方の工場に勤務していたところ、3年半経って経営企画部門に異動となった。未だ病気は癒えておらず、通勤は会社の補助を得て本社近隣にアパートを借りることで解消できたものの、海外出張は無理と思っていたし、第一、その年齢までパスポートすら持っていなかった。
が、97年夏に異動先で最初に担当した仕事はフィリピンでの子会社設立。何と人使いの荒い会社かと腹が立ったが、子供二人もまだ学生だし、家のローンも残っている。治りにくい持病を抱えた中年男を中途採用してくれるところもなかろう。という訳でパスポートを取得し、フィリピンでの会社設立の調査を始めることに。
フィリピンが軍人出身のラモス大統領の下、治安が安定したことや有力需要家が立地していたことが進出動機だった。フィリピンの新興ネットメディア「Rappler」は7月31日の記事で、ラモスは「規制緩和と自由化政策によって外国投資に経済を開放し、輸送と通信の分野では強固な独占を解消し、12時間の停電を終わらせ、社会改革によって貧困率を39%から31%に削減し、経済面で成功を収めた」と讃えている。まさにそういうタイミングだった。
フィリピンと言えば65年に大統領に就任したマルコスが86年の「2月革命」(エドゥサ革命)で、群衆が大挙押し寄せるマラカニアン宮殿からヘリで脱出してハワイに亡命する様や、宮殿に残されたイメルダ夫人の膨大な数の靴などのニュース映像が当時も目に浮かんだ。が、その息子が先般の大統領選で勝って、ドゥテルテを後継すると言うのだから、人のみならず国も様々と言う他ない。
21年にわたるマルコス政権では、72年から9年間戒厳令が布かれた。共産主義勢力や武装組織への対応が目的とされたが、73年の大統領選で、規定で3選できないマルコスの後を継ぐと予想されたベニグノ・アキノ上院議員(ニノイ)の逮捕劇もあった。ニノイは、後の大統領コラソン(コニー)と結婚した22歳の年に地元タルラック州コンセプション市長に就任、28歳で同州知事、66年には34歳で上院議員になっていた(『アコナ』若宮清)。
ニノイの容疑は政府転覆計画、マルコスが最高司令官を兼ねる軍事法廷は77年11月、銃殺刑を言い渡した。国内外からの非難で執行は延期されたものの、ニノイは心臓発作で倒れ、手術のため渡米、手術が成功した後、ハーバードやMITで特別研究員を務める傍ら、反マルコスの活動を始めた彼は、83年8月21日に帰国することになる。
その日にマニラ国際空港でニノイに降り掛かった射殺の惨劇は、台北から中華航空機で同行していた若宮の前掲書に詳しいが、ニノイは帰国を決めた6月、若宮に「フィリピンの土を踏んだら私はこう叫ぶつもりだ。もし私が有罪ならこの場で殺せ!」と語り、後の事態を予測していた節がある。彼の遺志は2年半後の「2月革命」によるコニーの大統領就任で実現される。
「2月革命」の契機は、86年2月7日の大統領選挙で民間の選挙監視団体や投票立会人らが、大差でのコニー勝利を公表したものの、逆にマルコス勝利を公表した中央選管の不正操作だった。野党やカトリック教会は勿論、ニノイ暗殺以来、マルコスに不信感を強めていたレーガン政権の非難も影響した。軍参謀長だったラモスはエンリレ国防相と共に決起し、これに加わった。トランプが羨ましがりそうな出来事だ。
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97年当時、フィリピン大使館は渋谷にあり、赴くとそれと思しきフィリピン女性が数名手続き中。そこで外国企業の窓口であるPEZA(Philippines Economic Zone Authority)などに関する一通りの取材をした。が、こういう時に頼りになるのは、総合商社とゼネコンだ。立地予定の工業団地は、付き合いのある商社が電力会社などを経営する現地資本と共同で開発していた。
この時、当社は同じ工業団地にドイツ企業とのより大規模のJVも計画していて、そちらは英語が堪能な別の者が担当して計画を進めていた。そちらはJVゆえ、物事は須らくJV相手と協議して進められ、取得する区画は既に決まっていたし、PEZAへの申請書類も現地の法律事務所に委託済みだった。
外国も初めて、英語も少し読めるだけの筆者も、途方に暮れる暇もなく区画の選択とPEZAの申請書作成を始めた。先ずしたことは、既に決まっていたゼネコンに頼み込んで、過去に別の日系企業が申請した書類を見せてもらうこと。それと判る様な箇所は全て黒塗りされていたが、雛型よりも申請書の体裁をより具体的な形で知ることができた。
即ち、前文で、進出する事業が如何に先端的(cutting edge)で、有望であるかを縷々説明し、次に、それを裏付ける5年分の事業計画を、販売計画、損益計算書(PL)、バランスシート(BS)、キャッシュフロー計算書(CF)を添付して説明する。前文は黒塗り箇所を自社の「もの」や「こと」に置き換えれば良いし、財務諸表は3年ほどいた経理部時代に概略身に付けた知識で何とかなった。
事業部から販売計画の営業費の諸元を、生産部門からは固定費(人員や設備投資等)や変動費(原材料費、消耗用品費、エネルギー費等)、歩留まりなどの諸元をもらい、現地の単価を当て嵌めて年度毎の採算を弾き(PL)、投下資本や固定資産の残高、借入金や各種引当金などを見積もり(BS)、それを基にCFを作成する「make up」作業だ。約100時間掛けて作り、BEZAの許可を得たが、JVの方は、弁護士事務所に支払った作成費用が100万円だった。
外資企業は土地を所有できないので工夫が要った。現地銀行に邦銀から出向している日本人に知恵を借りた「からくり」は、現地銀行に例えば100万円預金し、登記する土地所有会社の株を、1株千円で千株持ってもらい、当社は1株を1億円で出資する方法。斯くて出資金は100万円vs1億円だが、持株比率は千株vs1株の歴とした現地会社が出現する。当社の子会社はその現地会社から土地を賃借するという訳だ。
人の採用は現地のブローカーに頼んだ。現地で商社に長年勤めていた年配の日本人が退職後、フィリピン人の奥さんとその種の仕事をしていた。彼らは新聞広告で総務課長を募集した。筆者も英語で面接したが全く通じず、奥さんが私の英語を、通じる英語に通訳するという珍事を経て、何とか採用にこぎつけた。後はその総務課長が経理課長を採用し、続けて従業員の採用をする段取り。
十数回出張したフィリピンの印象は、正直なところちょっと怖い国。街を歩けばビルの入り口にはマシンガンを持ったガードマンがいたし、暗がりでは恐喝が横行した(筆者は経験なし)。工業団地のお祭りの実弾発砲で、工場の下駄箱に流れ弾が当たったこともある。現法を任された30代後半の技術社員は、常に手提げ金庫を持って移動していた。
それでもラモス大統領時代のフィリピンの治安は大幅に良くなっていたらしい。その現地子会社も10年ほどで撤退した。合わせて合掌。