京都トヨクニ神社と大阪ホウコク神社と本家はどっち

德川家康を祀るのは日光東照宮だが、豊臣秀吉を祀るのは豊国神社で、全国各地にある。とくに有名なのが、京都、大阪、名古屋のそれだ。

豊臣秀吉を祀る豊国神社 (京都市) Wikipediaより

名古屋のものは秀吉の生地である中村にあって、県令国貞廉平らが秀吉の生誕地中村に秀吉を祀る神社を作ろうという運動をして、1885年(明治18年)7月に神社が創建された。1929年(昭和4年)に大鳥居が建てられたが、京都市の平安神宮大鳥居よりもわずかに高く、建築当時は日本一高い鳥居だったという。

もともと、豊国神社は、秀吉の死の直後に創建された。慶長4年(1599年)に、秀吉に後陽成天皇から「豊国大明神」の神号が下賜され、壮麗な豊国神社が建設された。

秀吉は、方広寺の大仏の鎮守として、新たな八幡として自らを祀るよう望んでいたが、朝廷では「豊国大明神」という神号で祀られることに指示した。

北野天満宮に倣った八棟造りの豪壮な神社で、このとき豊国神社があったのは、現在は樹下社があるところ。七条大橋から東山を進むと右側に三十三間堂があり、七条通の突き当たりを左折して10メートルほどしてから右折して女坂を上がっていくと、左が妙法院で、右に智積院があり、右に樹下社があり、左に京都女子大学があるが、このあたりが最初に豊国神社があった場所である。

そして女坂の突き当たりから石段があって、これを登っていくと阿弥陀ヶ峰の頂上に豊国廟があって、これが秀吉の墓である。しかし、この神社は徳川幕府によって毀され、秀吉も仏式の戒名にされた。

それから、時は流れ、幕府が倒れたあとの慶応4年(1868年)閏4月、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下された。明治天皇が浪速遷都を念頭に大阪に行幸されたおりに、木下家の奔走もあって、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であるということになった。

つまり、大阪城が新しい皇居になり、そのいわば鎮守として隣接地に建設されるはずだった。

ところが、公家たちの反対もあって、この浪速遷都は中止となり、豊国神社再興もいったんお蔵入りになった。

京都にするか、大阪にするかも悩みのタネだったが、結局は、もともと京都にあったものだし、お墓もあるので、京都に本社をつくり、分社を大阪にと言うことになった。

ただし、京都のほうは、「トヨクニ神社」で、大阪の方は「ホウコク神社」だ。読み方に混乱がよくあるのはこのような事情がある(名古屋は、トヨクニ神社)。

大阪の豊国神社はもともとは、中之島の公会堂のあたりにあったが、大阪市役所の増築のために、1961年になって大阪城二の丸に移された。豊臣秀頼、豊臣秀長も配祀する

(以上の話や秀吉の墓、発掘された遺体のお話しは、「令和太閤記 寧々の戦国日記」(ワニブックス)に詳しく書いた)