「醍醐の花見」で、秀吉の側室同士が杯の順を巡って衝突して大騒ぎになり、北政所寧々もおろおろするばかり。前田利家夫人のまつが、「年の功で私が」とかいって収めたという記録がある。
輿の行列では、最初に寧々が、次は茶々(西の丸殿)、三番目は竜子(松の丸殿)、それから信長さまの娘である三の丸殿、利家さまの娘である加賀殿、利家夫人のまつさまが続いた。
しかし、宴席で寧々の次に竜子が茶々より先に杯を受けたがって、茶々と言い争いになったのである。
これを見ると、第二夫人が茶々だというコンセンサスはなかったようだ。小田原や名護屋にもこの二人は同行しているが、秀吉は同等に扱っていたと云うことでないか。
竜子が歳上だし、京極氏は浅井氏にとって主君なので、竜子のほうが序列が上だったわけだが、その一方、茶々は秀頼の母親なので、それなりの格を与えなくてはならない。はっきりした形で序列を示す機会はあまりなかったのだが、秀吉の死を前に、争いが勃発したらしい。
というよりは、どうも秀吉がはじめて置いたきちんとした側室は竜子だったようだ。ただ、格下の茶々が子どもを産んだので微妙なことになった。
ここでは「令和太閤記 寧々の戦国日記」から、竜子が登場する箇所をいくつか抜粋して紹介しておく。
天下人秀吉の最初の側室は竜子
天下人となった秀吉が最初に置いた側室は、京極高次の姉妹である竜子です。母親は浅井長政さまの姉妹です。竜子は、それはもうたいへん美しい女性で、はじめ、若狭の武田元明さまと結婚いたしました。
武田元明(母は足利義昭らの姉妹)さまのことは、浅井・朝倉との戦いのところでも登場しましたが、朝倉滅亡後に若狭に戻られ、新しい若狭の国主になった丹羽長秀さまの客分として、大飯郡石山3,000石をいただいて、近江の京極家から竜子さまを奥方として迎えられたのです。
竜子さまの父親は京極髙吉さまで、夫人は浅井長政の姉妹である京極マリアさまです。熱心なキリシタンとして有名なので、この名で呼ばせていただきます。そのお子には、大津城主となった高次、信濃飯田城主となった高知、マグダレナという名で知られている近江朽木の領主・朽木宣綱の夫人、そして桑名城主だった氏家行広の夫人がおりました。
ところが、元明さまは本能寺の変のあとで明智方に与されたことから、近江海津で丹羽長秀さまに捕らえられて殺されてしまいました。近くの海津大崎は、湖国を代表する桜の名所として知られ、宝憧院というお寺に元明さまのお墓がございます。
秀吉が竜子さまの美貌の噂を聞いて、側室にするために夫を殺したなどと言っている人もいますが、丹羽さまが元明さまの領地を奪うためにしたことでございます。丹後守護で同じような立場でおられ、しかも、細川藤孝さまの娘婿だった一色義定さまも、領地を横取りしたい藤孝さまに殺されてしまいました。娘婿だったのになんということでしょうか。
よく、秀吉が色好みでたくさん側室を抱えたといいますが、そんなこと私が許すはずがありません。実は長浜時代にひとり、側室のようなことにした女性がいたのですが、これは京の奉行をしていたときに身の回りの世話をしていた者でした。
幕府に仕えていた武士の未亡人だそうで、秀吉は妊娠したこともあるとか言っておりました。でも誰の子かわかったものでありません。ただ、また、妊娠するかもしれないとかいうので、長浜に住まわせることをしぶしぶ承知したのです。けれどもそういう気配もなく、秀吉も執着がなかったうえに、尼になりたいというので願いを聞き届けてやりました。(※この女性のことはまったく不明なのでいちおうありそうな可能性で書いた)
そのあと、信長さまの四男である秀勝を養子にしたので、跡継ぎを得るために側室を置く必要もなくなり、秀吉が気まぐれで遊ぶのは見て見ぬ振りをしておりました。
しかし、関白殿下にもなると、あまりお手軽な遊びをするわけにもいかなくなり、きちんとした形で、側室というか第二夫人のようなものを置いたほうがいいと勧める人もおりました。
そうしたときに、丹羽長秀さまが、自分が預かっていた竜子は生まれも申し分ないし、長浜城主だった秀吉にとっては縁もあるし、京極家にゆかりのある浅井旧臣の家臣たちも多いことだからと、側室にすることを勧められました。私にも会えということで会ったところ、なかなか気も良く回って、私のことを田舎侍の娘などと馬鹿にした風もまったくなく、まずまず気に入ったので許可をだしてやったのです。
茶々が秀吉の側室になったのと、初が京極高次と結婚したのは、それほど離れた時期でありません。竜子が秀吉の側室になったので、兄の高次の運も開けました。高次たちの父である高吉さまは、浅井の名目上の主君であり客分のような立場でしたが、長政と信長さまが手切れとなったときは、たまたま足利義昭さまのもとにおられたので、長政とは対立することになり、義昭さまと信長さまが離れられたときは信長さまに付きました。
そして、浅井滅亡後の元亀4年(1573年)には、近江支配を円滑にするために少しは役に立つということで、先祖以来の江北の地ではありませんが、安土に近い奥島で5,000石が高次に与えられました。
ところが、本能寺の変で信長さまが明智光秀さまに討たれると、高次は妹の竜子が嫁いでいた若狭の武田元明さまと共に光秀さまに与して、秀吉の居城である長浜城を攻めたので、戦後は身を潜めなければなりませんでした。しかし、元明さまと違ってなんとか身を隠すことに成功し、一時は柴田勝家さまに匿われていました。
しかし、妹の竜子が秀吉の側室になったことからか秀吉に仕えることとなり、天正12年(1584年)に近江高島郡2,500石、翌々年には高島郡5,000石、同年の九州攻めに参加して高島郡大溝一万石を与えらました。
なにしろ、竜子の立場からしたら、兄弟や姉妹たちのことが気がかりですから、秀吉や私に良い縁組みを頼んできましたし、私も口添えをしてやりました。また、浅井三姉妹は従姉妹ですから、秀吉が側室にしたのは、そんなに不自然ではございません。
さらに、秀吉は「茶々とのあいだに子どもができたら、織田の血を引いているから好都合だ」と言っておりましたが、私はそれは口実だろうと割り切ってましたので、それが現実になろうとは想像してませんでした。
竜子にすれば、従姉妹で若い茶々が側室になるのは、複雑な思いでもありましたが、一族の繁栄のためには、良いことであるのは確かでした。なにしろ、竜子の母のマリアは気の強い女性で、竜子に姪である三姉妹の縁談がうまくいくようにしつこく頼んでいました。茶々にしても、竜子が大事にされているのを見ておりますから、嫌だったわけではないようでございました。親の敵だっ他人との結婚はごくありふれたことでもありました。
一方、次女の初は、竜子の弟の高次と結婚いたしました。これは、高次が5,000石の時代です。大名になったときは、初の夫で、竜子の兄弟だからだということで、お尻の光のおかげという意味で「蛍大名」などと揶揄されたこともあったと聞きます。ただ、高次はあまりそんなことを気にする人ではありませんでした。姉妹である竜子に似た美男子ですから、私から初に話したところ大喜びでした。
竜子は、秀吉の死んだあとは、大津城の兄弟のところに身を寄せましたが、関ケ原の戦いに巻き込まれ、西軍の打ち込んだ大砲の砲弾で侍女が亡くなるというような目に遭いました。
そのときには、私から高次に降伏するように手紙を出して、救い出してやりました。
私より10年ほどさらに生きておりましたが、大坂城を脱出したものの、徳川方に見つかって殺されてしまった秀頼の子である国松を誓願寺に葬るとか、仕えた女たちの面倒などもよくみるなど、よくできた女性でございました。
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