「ポツダム宣言」を流したプロパガンダ機関「OWI」の正体

夏になると「戦争を知らない子供たち」の一人である筆者でも、広島・長崎への原爆投下、日ソ中立条約破りのソ連参戦、ポツダム宣言受諾という敗戦までの一連の出来事に思いを馳せる。

チャーチル、トルーマン、スターリンが第二次世界大戦後を話し合ったポツダムの会議テーブル
Edward Haylan/iStock

ネットで日本大学法学会の学術刊行物「政経研究」第54巻第2号(17年9月)を見つけ、小林聡明准教授の「アジア太平洋地域における戦時情報局(OWI)プロパガンダラジオ ―朝鮮語放送の実態解明に向けた基礎的分析―」と題した35頁の論説を興味深く拝読、本稿の参考とした。

筆者は米国の「戦時情報局(OWI:Office of War Information)」という名称を、1945年7月26日にポツダムからトルーマン大統領が発した「ポツダム宣言」を、その短波放送網に乗せて世界に発信した部門として記憶していた(但し、小林論説ではポツダム宣言に触れていない)。

拙稿「終戦秘話①原爆投下の時間稼ぎだったポツダム宣言」では、トルーマン大統領がOWIルートでポツダム宣言を流したことを、「日本にポツダム宣言を軽視させることを狙ったものと考えている」として、以下の様に書いた。

宣言の発表から受諾までの経過

①発表 1945年7月26日21時20分(JST7月27日午前4時20分)

宣言の発表はポツダムの米国代表団宿舎で報道陣に対して行われたのみで、日本への送達も中立国などの公式ルートを介しては行われなかった。米国国内へも、ホワイトハウスや国務省宛にではなく、戦争の宣伝広告を担当していたOWI(戦時情報局)に送られて政府機関や報道に情報が流されるという極めて異例な流れだ。これは日本にポツダム宣言を軽視させることを狙ったものと筆者は考えている。

②日本への送達(JST1945年7月27日午前6時頃)

日本側は、OWIが各基地の短波送信機を使いJST27日午前5時から開始した放送を、外務省情報室が27日午前6時頃に傍受してポツダム宣言の内容を知った。それ以降、鈴木貫太郎首相がこれを‘黙殺’したことが原爆投下に繋がったとして人口に膾炙する約2週間の時が流れるのだが、その間に日本国内では宣言受諾の可否に関し「国体の護持」を巡って激しい議論が展開された。

この考えに至ったのは、仲晃の労作『黙殺 上下』(NHK books)や『ホワイトハウス日記』(平凡社:イーブン・エアーズ)、『大森実 戦後秘史2 天皇と原子爆弾』(講談社)などを読んでのことだが、米国のプロパガンダ放送では「ザカライアス放送」を多少知る程度で、OWIの詳細は知らなかった。

トルーマン大統領の報道官だったエアーズの『ホワイトハウス日記』のちょうど100頁目に45年7月22日~28日までをまとめて書かれた部分を、少し長いが以下に引用してみる。

今週も大統領はポツダムでイギリスとソ連の首脳と会談し、先週とほとんど同じパターンだった。

ポツダム会談で、生き当たりばったりのニュース発表のやり方を象徴する出来事が起こった。トルーマンとチャーチル両首脳は、日本に対する共同発表または最後通牒について合意したようだった。しかし私は、その件について事前通告を受けていなかった。

不意をつくようにホワイトハウスのマップ・ルームにこの共同発表の本文とともにメッセージが届いた。ホワイトハウス宛でも私宛でもなかったが、「大統領より、OWI宛」と書いてあった。そして発表文を公表するようにとの指示があった。OWIは指示を受け、写しが我々のオフィスに届いた。OWIは使いをよこし、写しをOWIの各部署に持って行かせた。そこで国内部門に回ったことは間違いない。

しかし彼らは不意打ちを食らって、どうしたらよいか判らないようだった。私に電話でアドバイスを求めてきたが、彼らのやるべきことに口を出すまいと考え、私がもしあのような文面のメッセージを受け取ったなら、直ちに発表するだろう、というにとどめた、やがて彼らはメッセージを謄写版印刷したが、直ぐに発表せずに、先ず写しをホワイトハウスと国務省の記者会見室に配布してからにした。

一方、ロスがベルリンでその発表を行い、短い雑報が通信社電で流れると、それをBBC放送が取り上げ、それがアメリカの夕刊に掲載された。

私はロスにメッセージを送り、状況確認を試みた。その結果、大統領からのメッセージはもともと国内発表向けではなく、直ちに対日放送用に準備すべくOWIに送られたもので、ベルリンのマスコミに流す以外、国内発表など考えていないことが判明した。

記者たちは、何が起こったか興味津々で、OWIがホワイトハウスの代行をしているなどと冗談をいうものもいた。注)ロス:エアーズの上司チャールズ・ロス。マップ・ルーム:ホワイトハウスの秘密作戦会議室

大統領報道官が「日本に対する共同発表または最後通牒」と見做す文書が、その公表を指示された部門が「不意打ちを食らって、どうしたらよいか判らないよう」な状況で流されるのは尋常でない。「記者たち」が「OWIがホワイトハウスの代行をしているなどと冗談をいう」ほどに。

そのはずで、42年6月に発足したOWIは「国内外で、プロパガンダや諜報活動、敵国に関する調査研究などを行う米政府の情報プロパガンダ機関の一つ」だった。前身のCOI(情報調整局)は、日本による真珠湾攻撃の翌9日から、早くも対日プロパガンダラジオ放送を開始した。

COIをOWIとOSS(戦略諜報局)に分割する大統領令9182号は、COIのドノバン長官(ワイルド・ビル)をOSS長官にスライド、OWI長官にはエルマー・デイビスを就任させた。が、心理戦に関する責務区分が明確でなく、両局は海外の諜報活動を巡って対立した。

43年3月の大統領令9312号で、OWIが外国情報や海外でのプロパガンダ作戦を実施する、と明示されたものの、両局による破壊活動や隠密プロパガンダ作戦の権限が明確化されず、結局、この辺りの責務が明確でないまま終戦を迎えた。

が、ラジオ放送の分担は、ホワイト・プロパガンダとブラック・プロパガンダで明確だった。すなわち、OWIのVOA放送が、聴取者が「情報の出所を確認でき、情報の正確性と真実性が比較的高い」ホワイト・ラジオである一方、OSSの中国戦線でのラジオやサイパンからの日本向け放送は「非公然の出所から創出された作り事であり、偽の情報を敵国の聴取者に伝達する謀略的な試み」、すなわちブラック・ラジオだった。

サンフランシスコ以西の太平洋地域におけるプロパガンダを担ったOWI太平洋局の任務は、①戦況を伝え、②戦争を行っていることの意味を意識させ続け、③勝利するであろう米国の重要性を強く意識させること、とされた。

OWIラジオの対象はホワイトカラーが主で、向け先は、①同盟国(中華民国やオセアニアなど)、②日本の占領地(中国、フィリピン、インドシナ、タイ、蘭領東インド、マラヤ、ビルマなど)、③日本向け(日本人に恐怖心を与える)、④駐留米軍人向けにニュースや娯楽を提供する、などだ。

日本向け(朝鮮・台湾を含む)の番組では、①日本の敗北は不可避で、抵抗が無駄であることを示すこと、②権力の座にある軍国主義者の破滅的な結果を示すことで銃後の国民に不和を引き起こすこと、を眼目にし、日本の為政者が如何に無能で、米国が如何に偉大であるかを強調した。

筆者は「朝鮮半島分断小史②」で、「総督府がポツダム宣言受諾を知った8月10日の短波放送を、民族運動家の呂運享も聞いていた」と書いた。小林論説は、米人長老派宣教師エドウィン・クーンズがOWI朝鮮課長だったとしているから、呂の聞いた短波放送はクーンズが流したのだろう。

朝鮮で宣教していたクーンズは、真珠湾の後にスパイ容疑で事情聴取された。42年6月に米国に送還され、同年末までにOWIに加わった。尹奉吉による「上海天長節爆弾事件」(32年4月)に加担した後、南京事件の告発にも関わったジョージ・フィッチといい、米人宣教師には日本嫌いが多い。

こうしたプロパガンダ放送を日夜行っているOWIが、短波ラジオを通じて唐突に流した「ポツダム宣言」が、鈴木貫太郎総理によって「この宣言は重視する要なきものと思う」とされたのも宜なるかな。

もしもトルーマンが「宣言」を、中立国(スイスかスウェーデン)を通じて、駐在日本大使に公式に伝達していたなら、7月中に受諾に至っていた可能性が高かったと言えまいか。であれば、広島・長崎に原爆が落とされることも、満洲・北朝鮮や北方領土がソ連軍に蹂躙されることもなかった。