核戦争のリスクに向き合う:考えられないことを考えるということ

野口 和彦

この記事のサブタイトルは、戦略研究の泰斗リチャード・ベッツ氏(コロンビア大学)の最新の論文から借用しました。かれは世界で最も影響力のある外交雑誌『フォーリン・アフェアーズ』のウェブ版に、先月初め、ロシアがウクライナで戦術核兵器を使用する危険を分析した論考を発表しました。それによれば、皮肉なことに、ウクライナ軍がロシア軍を追い詰めると、核戦争が勃発するリスクを高めてしまいます。同論文でベッツ氏は、以下のように述べています。

ロシアが核兵器を使用する…危険は、戦局が決定的にウクライナ有利に動いた場合に最大になるだろう…ロシアは1発か数発の戦術核兵器をウクライナ軍に向けて発射するか、空地で象徴的に爆発させることにより、それを実行するだろう。

ロシアはウクライナ侵攻前から、核兵器使用の条件に関するドクトリンを発表しています。その4つ目の条件が「通常兵器を用いたロシアへの侵略によって国家が存立の危機に瀕した時」ということです。

実際、プーチン大統領は、この戦争における核兵器の使用を全面否定していません。かれは6月17日「ロシアは核兵器で誰も脅していないが、主権を守るためにロシアが何を持ち、何を使用するかを誰もが知るべきだ」と述べ、核使用の可能性を否定しませんでした。

そもそも、この戦争でプーチン大統領が核兵器を使ってでも敗北を阻止して、勝利を収める決意であることは、以前から指摘されていました。旧ソ連のニキータ・フルシチョフ首相の孫であるニーナ・クルシチョワ氏は「プーチンはいかなる代償を払っても、この戦争に勝つつもりだ。このことは、彼が勝利宣言に必要ならば、戦術核を必要とするかもしれないことを示唆している。ただし、これはロシアが行使を準備するであろう選択肢の一つだ」とみています。

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レッド・ラインとしてのクリミア

ロシアの生存が脅かされる事態とは、どのようなものでしょうか。ロシア・ウクライナ戦争の文脈において最も懸念されるのが、ロシアがクリミア半島を失いそうな状況です。

19世紀半ばに勃発した「クリミア戦争」では、同半島をめぐり、ロシアはイギリスと激しく戦いました。クリミア半島は黒海に臨んでいます。クリミア半島はウクライナにとってはもちろんですが、ロシアにとっても海上交通路の出発点として重要な戦略的拠点なのです。

ジョン・ミアシャイマー氏(シカゴ大学)は、2014年のウクライナにおけるマイダン革命で親ロシア派のヤヌコビッチ政権が崩壊した後、ロシアがクリミアに侵攻した理由について「クリミア半島にはセバストポリという黒海に面した重要な海軍基地がある。ロシアがここをNATOの基地にさせることなど考えられない。これはロシアがクリミアを奪った主な理由だ」と指摘していました。

現在、ロシア軍とウクライナ軍の戦闘は重大な局面を迎えています。ウクライナ東部と南部での戦争は膠着状態が続いていますが、ウクライナは2014年にロシアにより併合されたクリミアへの攻勢を始めたのです。

ウクライナ政府は公式には認めていませんが、CNNによれば、ロシアに併合されたクリミア半島のロシア軍施設で最近発生した3回の爆発について、ウクライナが関与していたことが同国政府の内部報告書から明らかになりました。その最大級のものは、2022年8月9日に起こった、クリミアにあるロシアのサキ空軍基地での大規模な「爆破事件」です。

伝えられるところによれば、西側外交・軍事筋が、基地内で働くウクライナ人による攻撃だったと述べたそうです。この攻撃では、少なくとも8機のロシア航空機が爆破されました。ウクライナ人たちが1機ごとに爆破していったとのことです。

少し前までは、ウクライナがクリミアで攻勢を仕掛けることは、あまり想定されていませんでした。英国王立防衛安全保障研究所のシハルス・カウシャル氏とトサム・エヴァンス氏は「(ロシアの)戦術核が局地紛争(local conflict)で使用されるシナリオは存在しない…したがって、ウクライナがクリミアを再奪還できるまでにロシア軍が総崩れになる、あり得そうにないシナリオ以外、使われそうにはない」と言っていました。

今後、ウクライナ軍がクリミア半島で、どこまでロシア軍を追い詰めるかは分かりませんが、この戦争が重大な局面に入ったことは間違いありません。

ウクライナとアメリカの政策転換

これまでウクライナ軍はクリミアへの攻撃は行いませんでした。また、アメリカのバイデン政権も、ロシアとの軍事対決を避けるために、ウクライナにロシア領内を攻撃できる兵器の提供を慎むとともに、ゼレンスキー政権に対して、そうした軍事行動を控えるように要望していました。

しかしながら、キーウもワシントンも、これまでの戦争方針を大きく転換したようです。ゼレンスキー政権のオレクシー・レズニコフ国防相は6月17日、「我々は全ての我々の領土を解放する、その全てであり、クリミアを含めてだ」、「クリミアはウクライナの領土だから、ウクライナにとって戦略的目的だ」と明言しました。

このウクライナ政府の強気の姿勢は、ウクライナ国民にも支えられています。8月の世論調査によれば、ウクライナ国民によるゼレンスキー大統領の支持率は91%に達しており、ロシアとの戦争の結果としてドンバス、クリミアを含む全ての領土を維持するだろうと回答したウクライナ人は64%になります。この数字は4月調査では53%でしたから、戦争が長期化するにしたがい、より多くのウクライナ人がクリミア奪還を擁護するようになりました。

アメリカもウクライナによるクリミア攻撃を容認するように方針を転換したようです。カート・ボルカー元米駐NATO大使は「クリミアのロシア軍を攻撃することは、キーウ近郊、ケルソン、東ウクライナのロシア軍を攻撃することと違いはない」と注目すべき発言をしています。バイデン政権はロシアのクリミア併合を認めていないから、クリミアのロシア軍への攻撃は、ロシア国内のロシア軍への攻撃には該当しないとして正当化するようです。

こうした戦争方針の大転換は、核戦争のリスクに大きく影響します。これまで軍事専門家は、クリミア半島への攻撃は、ロシアが核兵器の使用に踏み切る1つの「レッド・ライン」であるとみてきました。前出の王立防衛安全保障研究所のマルコム・チャルマーズ氏は、「ドネツクやルハンシクがウクライナに奪還されたとしてもロシアは生存への脅威とみないだろう。だが、クリミアは併合されロシア黒海艦隊のセバストポリ軍港もあるので、ウクライナの攻勢には核のエスカレーションで応じる恐れがある」と警告していました。

ロシア政府は、ウクライナが米国製の多連装ロケットシステム(MLRS)や、北大西洋条約機構(NATO)が供給する長距離兵器をロシア領への攻撃で使用した場合、「深刻を超える」結果を招くと警告しています。ここで言うロシア領にクリミアが含まれ、「深刻を超える結果」が戦術核兵器の使用を意味するのであれば、核兵器の使用は現実味を帯びてきます。

核兵器の使用に慎重なロシア

ロシアは今のところ核兵器の使用について、少なくとも公式な声明では、かなり慎重な姿勢を保っています。戦略論の大家であるローレンス・フリードマン氏(キングス・カレッジ)は、ロシアの核使用のレッド・ラインは、NATOの直接の軍事介入だろうと読んでいました。それを裏づけるかのような発言は、ロシアの指導者から聞かれます。

ロシア外務省高官のアレクサンダー・トロフィモフ氏は8月2日、ロシアが核兵器を使用する「シナリオ」が妥当になることがあるとすれば、「ウクライナ情勢」そのものではなく、ウクライナ情勢を巡ってのNATO諸国からの「直接攻撃」に対抗するために使用の決断があり得ると表明しています。

セルゲイ・ショイグ国防相は、8月16日「軍事的な観点から言えば、設定された目標を達成するためにウクライナで核兵器を使用する必要はない。ロシアの核兵器の主な目的は、核攻撃を抑止することだ…特別軍事作戦でロシアの戦術核兵器や化学兵器の使用を巡る憶測をメディアが広めている。これらの情報は全て完全なうそだ」と強い口調で、大量破壊兵器をウクライナで使用することを否定しています。

このように現在までのところ、クレムリンはウクライナにおける核兵器の意図的な使用を否定していますが、核戦争は意図せざる結果として起こることもあれば、偶発的な核兵器の応酬になる恐れもあります。これには注意が必要でしょう。

アメリカの若手政治学者は、次のように警告しています。ロシア・ウクライナ戦争において、アメリカやNATOがロシアのレッド・ラインに近づくと、ロシアの貯蔵庫から核弾頭が取り出されミサイル基地に運ばれることになります。そしてプーチン大統領と軍首脳が下した核兵器使用の命令を円滑に核ミサイル基地へ伝えるために、下級レベルの指揮統制システムへの権限移譲が進むことになります。これらの動きは、指揮命令系統や核兵器の取り扱いにおけるミスによる核使用のリスクを高めてしまいます。

核戦争を防ぐために必要なこと

アメリカのランド研究所は、ロシア・ウクライナ戦争のエスカレーションを分析して、核戦争に発展するのを防ぐための提言を公表しました。それらは、NATOは戦争に直接介入しないシグナルをクレムリンに送ること、NATO東方における戦力の強化は防御的にして、ロシアを攻撃できる長距離の打撃力は控えること、プーチン政権の打倒ではなく戦闘の停止が目的であることを明確にすること、などです。

同研究所の所属するサミュエル・チャラプ氏と外交問題評議会のジェレミー・シャピロ氏は、『ニューヨーク・タイムズ』紙のオピニオンにおいて「我々は、双方が相手が前進し始めたら直ぐにもっと前進するよう強いられていると感じる、古典的なスパイラルを目撃している。このダイナミズムが制御不能になるのを防ぐ最良策は、手遅れになる前に対話を始めることだ」と戦争のエスカレーションが核兵器の使用を招く危険を訴えています。

もっとも、停戦のカギを握っているゼレンスキー大統領は、プーチンとの対話のつもりは全くないようです。かれは「ロシアが奪った領土の維持を認めるような停戦は、さらなる戦闘を促すだけだ」と指摘し、ロシアに次の戦いに向け同国軍に補給や再武装の機会を与えることになると述べています。その一方で、ゼレンスキー氏は年末までの終戦を望んでいるが、実現するかは不透明だとも発言しています。

苦戦を強いられているウクライナ軍

我が国では、メディアを通じて、ウクライナのクリミアへの「攻撃」により戦局が逆転したかのような言説が広がっているようですが、はたして本当なのでしょうか。残念ながら、さまざまなデータは、こうした楽観論を戒めています。

ウクライナは反転攻勢をロシア軍に仕掛けて、一気に占領地を奪還するために必要な武器や装備を得られていません。ウクライナがロシアを敗北させる戦争目的を達成するのに必要な武器のデータによれば、戦車、多連装ロケット砲、榴弾砲の全てが条件を満たすには程遠いことは、『フィナンシャル・タイムズ』紙の分析記事により明らかにされています。同記事によれば、ウクライナや西側の防衛当局者とアナリストは、もしウクライナが戦闘を持続するならば、より多くの兵器と予備役を訓練する長い時間が必要であることに合意しています。

こうしたウクライナ軍の苦境は、改善されるどころか、むしろ悪化している可能性さえあります。キール世界経済研究所の調査によれば、ロシアのウクライナ侵攻がはじまって以来、7月は、初めて月を通じてイギリス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、ポーランドのヨーロッパ主要6か国が、ウクライナ政府と新規軍事公約を結びませんでした。それどころか、ヨーロッパからのウクライナへの武器支援はこの数か月で減少しているのです。

同研究所のクリストフ・トレベシュ氏は4月末以後、ヨーロッパからのウクライナへの軍事支援は減少傾向にあり、「戦争が決定的な局面に入っているにもかかわらず、新規支援のイニシアティヴは干上がっている」と、ヨーロッパ諸国の言動が一致していないことを糾弾しています。

こうした苦境を物語るように、ウクライナ南部のミコライフ州のある市長は「軍事理論は、攻撃するには3:1の優位が必要だと語っている。だが、彼ら(ロシア兵)は要塞建設を進めているのだ…彼らは戦闘を冬まで引き伸ばそうとするだろう…我々の市街が毎日標的にされ、ウクライナ人が殺されている。我々は反撃する必要がある」と悲壮な覚悟を語っています。

ロシア軍とウクライナ軍のバランスを客観的に分析すれば、残念ながら現在でも、戦局を一変させるだけの戦力をウクライナ軍が保有するには至っていないのです。

核戦争のリスクに向き合う方法

世界的ベスト・セラー『ブラック・スワン』の著者であるニコラス・タレブ氏は、リスクへの対応について、こう語っています。

現代のリスクには…安全保障などがある…将来を左右する大きなことで予測に頼るのは避ける…信じることの優先順位は、確からしさの順ではなく、それで降りかかるかもしれない損害の順につけるのだ…深刻な万が一のことには、全部備えておくのだ(66-67頁)。

ロシア・ウクライナ戦争が核戦争にエスカレートする確率、すなわち「確からしさ」は低いでしょう。しかしながら、戦争のエスカレーションは予測がほとんどできないほど、それをコントロールすることが困難なのです。

ミアシャイマー氏は一貫して戦争のエスカレーションの危険と停戦を訴えてきたために、ウクライナ政府から「ロシアのプロパガンダを広める学者」として糾弾されましたが、彼はロシアの味方をしているわけでは決してなく、むしろ核戦争になってしまったら、とてつもない被害をウクライナにもたらすことになるから、国際政治や戦略の専門家として、それを避けなければならないと警鐘を鳴らしているのです。少し長くなりますが重要なことので、ミアシャイマー氏の発言を以下に引用します。

最大の成果を求める思考は、今やワシントンとモスクワを支配して、戦場で勝利する、より強い理由を双方に与えている…外交的解決の可能性の欠如は、双方にエスカレーションの梯子を登る追加の誘因を与えている。階段のさらに上にあるものは正に破滅になり得るものである。すなわち、第二次世界大戦を超えるレベルの死者と破壊である…モスクワにとって事態が悪化しており、フィンランドとスウェーデンがNATOに加盟しようとしているし、ウクライナは武装をより強化して西側との同盟により近づいている。モスクワはウクライナで負けることが許されなくなり、(核使用を含む)あらゆる手段を使って敗北を避けようとするだろう…世間に広がっている陳腐な見解はウクライナにおけるエスカレーションの危険を過小評価している…戦争はそれ自体の論理を持つ傾向にあり、行方を予測するのを難しくする…戦時のエスカレーションの力学は予測もコントロールも同じく困難なのだ。

今のところ、クリミアにおけるウクライナによるロシア軍への攻撃は散発的であり、NATOが直接的に軍事介入しそうにありません。しかしながら、長期的には、核戦争のシナリオは空想ではなくリアルです。そして核戦争が起こってしまったら、ウクライナのみならず世界に降りかかる損害は天文学的なものになります。

ラトガース大学の研究チームの調査によれば、アメリカとロシアの間で核戦争が起こった場合、あるシナリオでは全人類の半分が死亡する結果になりました。これをうけて、同大学のアラン・ロボック氏は「データがわれわれに伝えようとしているのは、核戦争を絶対に起こさせてはならないという一点だ」と述べています。つまり、ロシアの核兵器の使用をアメリカをはじめとする西側諸国は抑止しなければなりません。

ここで克服しなければならない深刻なジレンマは、前出のベッツ氏が指摘するように、NATO諸国がモスクワに核爆発で戦略的利得を獲得させずに、さらなるエスカレーションを防ぐという綱渡りのような戦略を構想することに集約されます。アメリカと同盟国そしてウクライナは、核戦争の深淵を見たキューバ危機以降の最大の難問を解くという、途方もない難事業に取り組まなくてはならないのです。

日本のメディアで大きな発言力を持つ専門家は、率直に申し上げれば、ロシア・ウクライナ戦争における核戦争のリスクに総じて鈍いと言わざるを得ません。この記事を読んだ方々は、欧米の識者の警告に耳を貸していただきたいと切に願っています。


編集部より:この記事は「野口和彦(県女)のブログへようこそ」2022年8月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「野口和彦(県女)のブログへようこそ」をご覧ください。