石田三成と小西行長が考えた朝鮮出兵の現実的落とし所

景福宮を焼いたのは日本軍でなく民衆~文禄の役の真実

秀吉の朝鮮出兵は、時系列をしっかり踏まえて、観察しないと理解できません。なにしろ、文禄の役の開始から秀吉が死ぬまでは6年もかかっているのです。その間、無駄な時間を使わなかったら、大勝利で終わっていたような気がしますが、そのあたりを北政所寧々さんの日記(『令和太閤記 寧々の戦国日記』)を見ながら考えていきましょう。全体の二割くらいに圧縮していますので、興味のある方は単行本、あるいは電子書籍を読みくだされば幸いです。

文禄の役は1592年4月12日、対馬に布陣していた小西行長と宗義智が率いる1万8千の軍勢が、700艘の軍船に分譲して朝鮮に渡海したことで始まり、釜山城を陥落させ、破竹の勢いで進軍いたしました。

秀吉は4月25日に名護屋城に入るのですが、5月3日には小西行長や加藤清正らが、漢城に入城しました。その2日前に国王は首都を放棄して平壌に逃げたあとでした。

この快進撃のときの軍勢が、乱暴なことをして民衆に嫌われたという人がいますが、嘘でしょう。秀吉からも、風習の違いに気をつけろと厳しく言い渡していましたし、民衆からはあたかも解放軍のように迎えられたこともあったのです。

漢城では、日本軍が入城する前に、景福宮など全て焼かれてしまい、大事な記録なども失われました。ここに限らず、朝鮮の文化財の多くが「文禄・慶長の役のときに失われた」としてもそれは、「日本軍の狼藉で失われた」とは別なのです。

『朝鮮征伐大評定ノ図』1877年作
出典:Wikipedia

気が大きくなった秀吉は、明国を征服したあとの構想などを、知らせてきました。なんでも、後陽成天皇を唐の都(北京)に移し, 中国の関白に秀次をつけ、日本の帝位は、若宮(皇子・良仁親王)か八条殿(皇弟・智仁親王)が継承し、関白に羽柴秀保か宇喜多秀家。

朝鮮の支配は、羽柴秀勝か宇喜多秀家に任せ、九州には小早川秀秋を置く。秀吉は寧波に住んで天竺などの征服の指揮を執る、とかいう調子のいいものでした。あんまり簡単に朝鮮の都を占領できたので、すっかりいい気になったのです。

秀吉は自ら渡海すると言ったのですが、家康さまや利家さまが準備万端整えてからでいいではないかと止められたので、翌年の春に、ということで承知したのです。現地の将兵や石田三成たちは、秀吉にも大軍とともに渡海してもらって、総力戦で地歩を固めるということと、いちど秀吉自身が前線を視察して現地の実情を見ておかないと、あとあと隔靴掻痒になると思ったようで、そちらに理があるように思えました。

ただ、義母のなか(大政所)は、秀長や旭に先立たれて気弱になってきたときですから、やめて欲しそうでした。私はどうせ止めても聞かないので、好きなようにしたらと割り切っておりました。

ところが、7月22日に義母のなか、つまり大政所が京の聚楽第で亡くなってしまったのです。秀吉は急ぎ帰洛したのですが、間に合いませんでした。大坂ですでに亡くなったことを聞いた秀吉は、悲しみのあまり卒倒してしまいました。そして、49日喪に服したので渡海も沙汰止みになって機を失しました。

碧蹄館での大勝利

朝鮮では、加藤清正など戦線拡大派の武将もいましたが、毛利輝元さまあたりも、朝鮮は広いし、言葉も通じないので、統治は容易でないと冷静な観察を漏らして国元に書き送ってこられたと聞きましたし、小西行長や石田三成も慎重になってきたようでした。

救援を求められた明では、西域の寧夏地方でポパイの乱という抗争があり、時間稼ぎをしようとしました。

沈惟敬という在野の人物が派遣されて、50日の停戦が行われましたが、寧夏方面が少し落ち着いたので、司令官である李如松が戻ってきて、朝鮮に進軍してきたので、行長は漢城に退却し、宇喜多秀家、小早川隆景、立花宗茂、石田三成らは漢城の北西にある碧蹄館で待ち受け、日本軍の大勝となりましたが、追撃は無理だと小早川さまが止めたそうです。

この戦いは、七世紀に白村江の戦いで日本軍が唐軍に敗れてから、900年ぶりの日中決戦でございました。陸上での戦争では史上初めて日中激突での記念すべき勝利でした。

しかし、この勝利のあと、明国も日本と交渉に真剣する姿勢になりましたので、日本軍は釜山周辺まで退去し、和平交渉が本格化しました。

秀吉は、大政所の供養が済んだら渡海するつもりだったのですが、年が明けると、なんと茶々が、またもや名護屋で懐妊していることがわかったのでございます(単行本ではこのあと秀次事件について説明)。

日本軍としても、漢城で食糧不足に悩んでおりましたので、漢城を離れて半島南部に退き(4月)、明軍も朝鮮から撤退し、加藤清正が捕縛した王子を返還すること(8月)、明の使いが日本へ派遣されることなどが決まりました。

こうした戦いで、先に使者を出すことは、和を請うことになりますから、形の上では日本が勝ったと言えばそうなのです。

明の使いは名護屋の秀吉のところに来たので、秀吉は明皇帝の皇女を帝の后妃とすること、勘合貿易の復活、朝鮮の慶尚・全羅・忠清・江原道の割譲、王子を人質として日本に送ることなどを要求いたしました(5月)。

また同じ頃、朝鮮では難攻不落と言われた慶尚南道南西部の晋州城を、宇喜多秀家らが総攻撃し、これを占領し(7月)、守備隊を残して帰国しました。

明の交渉の責任者は、明の皇帝(万暦帝)に対しては秀吉が和を請うてきたので、モンゴルのアルタン(これより少し前に北京を包囲したモンゴルのハーン)と同じように日本国王に冊封し、貿易も認める形にして呉越同舟で丸く収めるように勧めたのです。文禄3年(1594年)12月のことです。

ところが、明の宮廷では、秀吉がアルタンのように北京に近いところまで攻めてきていたわけでなかったし、アルタンに冊封と貿易を認めても、大人しくなったわけでないというので、冊封だけはするが貿易は許さないということにしてしまいました。

それでも、明は日本に正式の使節を出すことにして、文禄4年(1595年)の11月には釜山までやってきたのです。

このあいだに日本では、秀頼の誕生と秀次の切腹という大事件が起きていたのです。この事件のために時間を空費したことが、秀吉の存命中に事態を打開できない原因になり、それは後悔が残ることでございました。

それでも、文禄5年(1596年)には、明の使節が日本にやってきて、はじめは、伏見城で謁見が行われるはずでしたが、閏7月の13日未明に大地震があり、閲見が遅れました。

日本軍駐留を認めるかどうかで明が原則論に固執で交渉決裂

秀吉がどうするつもりだったかは、私もあまりよくは聞いておりません。うまくいっているときなら調子のいい目論見を自慢げに話すのですが、そうでもないときですから、それほど言わないのです。

それでも、私の秘書ともいえる孝蔵主が、石田三成などから聞き出したところによると、明の使節団では、秀吉を日本国王に冊封する、朝鮮からの全面撤兵を要求する、加藤清正の捕らえた2人の王子を返還したお礼の使節を朝鮮国王に送らせる、交易はとりあえずは受けない、ということが交渉方針でございました。

地震があったのは、文禄5年(1596年)年の閏7月。閲見があったのは9月1日で、その場は穏やかに終わりました。

小西行長や宗義智が、秀吉に嘘をついて、ことをやり過ごそうとしたら、通訳にあたった相国寺西笑承兌が正直に訳したので、秀吉は書状を破り捨てたという説が信じられているようですが、書状もちゃんと残っております。

小西行長や石田三成は、秀吉がこだわっている領土の割譲を明や朝鮮に承知させることは、たとえ無理としても、半島南部の倭城(日本軍が築城した城)への駐留を継続させ、半島南部全域とはいわずとも、慶尚道と全羅道をかたちのうえで日本に割譲したうえで、お礼に来た王子の封地として、秀吉から与えて間接統治し、引き続き明には交易を求める、ということが落とし所としてあるかと考えたようです。

戦争の和平は、太平洋戦争のように無条件降伏して、一括で戦後体制を決めるということはむしろ希で、ウクライナでもそうですが、停戦と戦闘再開を繰り返しながら最終的な落とし所を探るのがむしろ普通なのです。ですから、倭城への駐留となんらかの形での領土割譲を得たら、あとは時間をかけて獲物を獲得すればいいという考え方でした。

ところが、明国使節団が領土割譲はしないと曖昧さを拒否して強硬に主張したので、それを秀吉に報告したら、直ちに本格的な再派兵だということになってしまったのです。

以上が、文禄の役の顛末を寧々の眼からみた時間的経緯で、つまるところ、秀吉が渡海に慎重になりすぎたとか、大政所の死、秀頼の誕生、伏見地震とかで、機を失っているうちに時間を浪費して、秀吉が元気なうちに新しい東アジアの秩序を樹立できなかったということです。

のちに、関ケ原の戦いのあと、島津が家康の了解を受けたうえで派兵して、結局のところ、明との関係はそのまま続け、薩摩と明が琉球を通じて間接的に貿易をする、首里に薩摩の代官を置いて国政を監督する、将軍に通信使を出す、奄美諸島だけは薩摩に割譲するということになりました。明は、薩摩に実際支配されていることは知っているのですが、知らないことにしておく、つまり黙認するということになったわけです。

小西行長や石田三成たちが考えていたのは、これに似たもので、それなりに現実的なものでしたし、琉球についてこうした関係を明も清も了解したくらいですから、朝鮮についても受け入れ不可能ではなかったはずです。

そんなの朝鮮の独立を踏みにじるものでけしからんと現代人はいうでしょうが、朝鮮は明に単に冊封されているというだけでなく、まったく、ひどい従属状態で独立国といえるかどうかという状態だったし(琉球やベトナムとは従属度がまったく違います)、日本が撤兵した後、満州族のホンタイジ(ヌルハチの子)に攻め込まれて、ソウルを占領されて、朝鮮国王は、郊外で三跪九叩頭させらる屈辱にあって、清の属国とされました。

さらに、その清が北京を攻略して中国の支配者になったのですから(明の残党の鄭成功が台湾に立て籠もって、日本に救援を請い、徳川幕府も紀州藩主の徳川頼宣を総大将に派兵をする直前まで計画を進めました)、明や朝鮮にとっても、日本と安定した関係を結んだら、西洋に十分に対抗できる状況になったわけで、それほど悪い話でもなかったはずです。