私は世襲政治家の問題をいろいろ調べてきたので、安倍・岸・佐藤家についてもかなり調べたし、岸・佐藤家の地元である田布施町にいったこともある。
今日は、あまり書いてこなかった安倍家と安倍寛・晋太郎について、『家系図でわかる 日本の上流階級 この国を動かす「名家」「名門」のすべて』(清談社)『安倍さんはなぜリベラルに憎まれたのか~地球儀を俯瞰した世界最高の政治家』(ワニブックス)を使いながら少し紹介したい。
安倍家は、現在は長門市に合併された大津郡日置村出身の名門で、大地主であり醤油醸造業を営んでいた。その先祖は古代蝦夷の血を引くともいわれる東北の名族安倍氏の流れだと称している。
前九年の役で安倍頼時は滅ぼされ、子の宗任が伊予守となった源頼義とともに西国に移りそこから西日本の安倍氏は広がった。
安倍寛は東京大学法学部卒業後、日置村長、山口県議会議員を経て、一九三七年に代議士となり、一九四二年の翼賛選挙では非推薦で再選。
若いころから脊椎カリエスと肺結核を患うなど健康に恵まれず、終戦直後に五〇歳の若さで死んだ。
晋太郎は寛と南部藩出身の軍医・本堂恒次郎(夫人は大島義昌陸軍大将の娘)の娘の間に東京で生まれたが、生後間もなく両親は離婚した。
1944年(昭和19年)9月に第六高等学校(岡山市)を繰り上げ卒業し、東京帝国大学法学部に進学するが、大津市皇子山の海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊させられ、特攻隊として出陣するはずだった。
首相時代にサミットに出席したとき、トランプ大統領から他の首脳に、「シンゾーの親父は神風特攻隊にいた。そんなグレートな父親の子なんだ」と紹介されて、どう反応していいか、一瞬戸惑ったと安倍首相本人から聞いたことがある。
毎日新聞記者となり、やがて、岸信介の長女である洋子と結婚し、外相秘書官、ついで総理秘書官となった。1958年の総選挙では岸・佐藤の反対を押しきって立候補し当選した。三期目の総選挙のときに不覚を取って落選したが、福田内閣では官房長官を務め、やがて、もともと岸派だった当時の福田派を大政奉還される形で引き継ぎ、安倍派を結成した。
娘婿の総理就任を熱望していた岸信介の死んだ1987年の暮れ、中曽根退陣のあと長州七人目の総理実現かと思われた。だが、中曽根は竹下を選んだ。
その後、リクルート事件で名前が取りざたされ、竹下後継も逃し、訪ソするなどして復帰に執念をみせたが、1991年に膵臓癌で死んだ。
新聞記者らしく官僚の話などを理解する能力にも優れ、志もあったが、その反面、人が良すぎるとか、政策についてもやや受け身で、自ら勉強して構築していくという点においてはやや物足りなさがあった。
なにか立派なこと考えて実行してくれそうなオーラがあるのだが、派閥の議員が、「うちの親父は、だまっていても、そう見てもらえるのだから得している」などということもあった。
安倍晋太郎と晋三の父子は、身長が高く、堂々としていることでは共通している。ただ、晋太郎は、鷹揚で包容力があり、いかにも床の間において座りのよい人物だった。
ランブイエではEUとアメリカの通商代表と、市内観光に出かけたが、自然と三人のなかで中心人物は自分だという雰囲気を醸し出していた。
ともかく、人の悪口は言わない大人だったが、それだけに、ぼそっという言葉には重みがあった。
それに比べると、若い頃の晋三氏は、行儀は良くて愛想はいいのだが、甘えたところがあったという。父親の晋太郎は、子どもに対しても厳しくしつけるというタイプでないし、母親からは溺愛されていたから当然だ。
だから、外相秘書官になったときは、父親のベテラン秘書などから厳しく鍛えられたと言う話を聞いている。
一方、当時から、なんともいえない憎めない愛嬌があって、それほど上手でないが宴会芸でものまねしたり、そのあたりは、父親と違うタイプで人に愛された。
晋太郎が亡くなったのは、1991年5月のことで、宮沢内閣への不信任案が可決されて解散総選挙になったのは、1993年7月である。晋太郎の思いがけない早い死で安倍家は後始末にたいへん苦労した。だから、文鮮明が日本に来たりしていた頃は、地元で奮闘中だった。
父親である国会議員が高齢となって引退するというときは、きれいに面倒なことは整理できるのだが、急なことだとそれが出来てない。癌だなどといいふらすわけにいかないからなおさらだ。
しかし、地盤は強固だったし、後継者争いもなく、弔い合戦の旗もあったから、選挙は楽勝で、林義郎や河村建夫に大差を付けてトップ当選だった。
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