『何のために働くのか』(拙著)「はじめに」の冒頭で、私は次のように述べました――昨今では、ほとんどの若者は「何のために働くのか?」について真剣に考えたことがないと思います。同様に「人間とは何ぞや」、「人生いかに生くべきか」といったことも、恐らく考えたこともない若者がほとんどだと思います。
拙著発行より15年半が経ちますが、上記状況に大きな改善は見られません。本来ならば小中高を通じた学校教育あるいは家庭教育においては、「人間とは何か」「人間如何に生くべきか」ということに関する基本的な学問、人間学を身に付ける機会とならねばなりません。
私たちの生きている社会は人間のつくった社会です。仕事をする相手も人間です。人間抜きには何も語れないのです。したがって、人間とは何かと考えることは、よく生き、いい仕事をするためには欠かせない大きなテーマになります(『何のために働くのか』)――人生の生きた問題を解決すべくは、人間というものの探求が絶対に欠かせないのです。
私自身、長年の研究テーマは「人間とは何か」「人間如何に生くべきか」ということで、これまでずっと中国古典を中心に様々な書物を渉猟してきました。こうした事柄は何千年もの昔から洋の東西を問わず、偉大なる哲人達が考え抜いてきた究極のテーマです。此の哲学的難題に対し例えば安岡正篤先生は、「一人物の死後に残り、思い出となるのは地位でも財産でも名誉でもない。こんな人だった。こういう嬉しい所のあった人だというその人自身、言い換えればその人の心・精神・言動である」と言われています。
人間とは何かといった場合、他の動物と比して考えることがよくあります。人間は万物の霊長と称されますが、その是非は兎も角何が貴重かと言うと、やはり「その人の心・精神・言動」が、その人を霊長たらしめるということです。そして「このことが、人間とは何かという問の真実の答になる」と、安岡先生は言われます。
人間としての成功あるいは真価は、棺に入って初めて問われるべきものです。棺桶に入る手前になって自問自答し、「まぁ自分の人生これで良かった。自分に課せられた天命をある程度自覚し、その達成に向けて世のため人のため努力をし頑張った」という思いで此の世を去れたなら、それは幸せなことでしょう。あるいは、残念ながら力及ばずして自分の天命を果たせなかった場合でも、その志を次代へと志念を共有している者に引き継ぎ世を去れたらば、それはそれでまた幸せなことでしょう。
人間どう在るかが大事です。我々は死するその時まで、「人間とは何か」「人間如何に生くべきか」といった根本を問い続ける必要があります。「一人物の死後に残り、思い出となるのは地位でも財産でも名誉でもない」のです。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2022年9月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。