築城名人黒田官兵衛が自分のために築いた福岡と中津

豊臣秀吉は城下町の創始者みたいなものだということを、「令和太閤記 寧々の戦国日記」では秀吉の生涯で住んだ城や各地での城造りをいろいろ時系列で紹介しています。

その中でキーパーソンが黒田官兵衛で、全国に豊臣式の城下町があるのは、彼の貢献によるところが大きいのです。

そこで、今回は官兵衛の城造りの特徴と、彼が自分自身のためにつくった福岡城と中津城を上記の本や「江戸全170城 最期の運命 幕末の動乱で消えた城、残った城」(知的発見! BOOKS 021)などから紹介します。

豊臣秀吉の時代になると、本格的な城下町が出現し、その多くは重要港湾などがある商業都市を組み込んだ。京極高次が関が原前哨戦で籠城した大津城などその典型で、しばしば、武家屋敷だけでなく、商業地区までもが惣堀のなかに取り込まれた。

そうした設計を得意にしたのが、黒田官兵衛で、秀吉のためには壮大な堀を巡らした大坂城を築き、京都の改造では市街地全体を御土居に囲ませたし、自らの居城である中津や福岡もそうした思想で設計されている。

官兵衛の城造りは、狭い意味での城郭を堅固にするだけでなく、周辺の地形を活かして攻撃しにくくすることであり、城下町の繁栄を確保できる場所を選び、町全体を惣堀で囲むといったことが特徴だ。

本丸上段北面石垣にある継ぎ目。向かって左が細川氏、右が黒田氏普請の石垣。
出典:Wikipedia

豊前国の三分の二しか黒田官兵衛がもらえなかったのは警戒されたからだという伝説があるが、このころの秀吉譜代の家臣としては蜂須賀家につぐもので冷遇とは言えない。この地を得た官兵衛は、耶馬溪から流れ出る山国川の河口に中津城を築いた。石材を調達するために古代につくられた唐原山城からも持ってきたらしく、この時代の石垣としては巨大で加工された石が使われ、野面積みの細川時代の石垣と対比が楽しめる。

幕末の藩主は奥平家で、長篠合戦のときの城主信昌と家康の長女亀姫の子孫である。島津重豪の子である昌高を養子に迎え、最後の藩主は宇和島の伊達宗城の子である。世子である昌邁を江戸から外国船に乗せて大坂に脱出させ、官軍に参加した。

城下町は、博多などほかの官兵衛が設計した町と同様に短冊形の街区からなり、全体を惣堀が囲っていた。

豊臣秀吉の九州制圧後に、官兵衛は「太閤町割り」といわれる博多の復興の指揮をとった。短冊状の長方形の区画をつくり、道路をはさんだ両側をひとつの町内とし、裏で背中合わせになる家は別の町内になる方式だ。

福岡城跡
出典:Wikipedia

関ヶ原の戦いのあと長政に筑前が与えられたとき、居城は博多と有機的な繋がりが持てる場所から選定された。博多の北に隣接した住吉は全くの平地、その北の箱﨑は水攻めに弱い、西の海岸に面した荒津は城下町の面積が取りにくく地質も悪いとして福崎となった。南側が丘陵につながるのが欠点だが、西は低湿地で北は博多湾、東は那珂川を挟んで博多の町だから、南側に重点的に防備を施せば大丈夫とみた。

天守台は築かれたが天守が建てられたかどうかは分からない。たとえ建てられたとしても、あまり背の高いものでなかったと推定される。砲撃の格好の目標になるからだ。また、城下町の規模は石高に比べて小さかったが、これは、博多に隣接しているから必要がなかったからである。