本能寺の変が起きなければ、毛利氏は武田氏と同じように滅亡しただろうが、そのときには大友宗麟は防長二カ国を得る約束になっていた。宗麟の母は大内氏の出身であり、足利幕府からも大内氏の家督は宗麟が引き継ぐことを承認されていたのだから不自然な話でない。
そして、この段階で信長が九州にやって来て仕切りをすれば、島津氏もそれに従わざるを得ず、大友氏は東の徳川氏とともに織田体制を支える両輪になっていただろう。だが、信長の死は毛利氏を救い、畿内の政権が九州へ影響を及ぼすのを五年も遅らせてしまった。
秀吉は、国際的な視野を持っていたので、九州に島津氏の独立王国ができて、海外と勝手に付き合いだしたら、日本という国は瓦解してしまいかねないことをよく理解していた。
また、貿易上の利益からいっても、新しい文化や技術の吸収のためにも、南蛮文化の窓口である九州は、是が非でも秀吉にとって抑えておかねばならない要地でした。さらに秀吉は、大陸進出の夢を信長さまから受け継いでいた。
その秀吉と九州の関係の詳細は、「令和太閤記 寧々の戦国日記」にかなり詳しく書いてある。秀吉の時代、九州は事実上の首都圏であった時期もある。
宗麟は秀吉を大坂城に訪ねて支援を約束されたが、島津氏は国内体制を整えて北へ向かって進攻し、一方で、豊後では宗麟のキリシタン改宗が波紋を広げ、家臣の妻に懸想して夫を殺すといった女狂いは宣教師たちの眉もひそめさせた。そして、島津軍と耳川で戦った時には、ひたすらゼウスに祈るばかりで指揮をとらずに敗れた(1578年)。
さらに、島津軍の豊後進入を受けての戸次川の戦いでも四国勢の援軍にもかかわらず惨敗した(1586年)。秀吉がやって来たときには病にあり、島津義久降伏の直前に死んだ。このために、息子の大友義統が豊後一国を安堵されるに留まった。
義統は文禄の役で渡海したが、明の大軍に包囲された小西行長の救援要請に応ぜず鳳山城から勝手に退却し、秀吉から改易された。関ヶ原では毛利輝元の支援で挙兵したが黒田如水に石垣原の戦いで敗れ、降伏した。ただ、子孫は江戸幕府の高家として存続した。
大友氏の改易ののち、豊後は豊臣系の小大名に分け与えられた。その詳細と関ケ原のあとの処遇は「47都道府県の関ヶ原 西軍が勝っていたら日本はどうなった」(講談社+α新書。現在はKindle版が入手できる)に書いたが、以下は、その関ケ原以前の状態の概要だ。
毛利高政は近江源氏の一族で鯰江氏と称していたが信長に敗れて森氏となり、人質としてあずけられた縁で毛利氏を名乗り、日田に封じられた。
名軍師竹中半兵衛の従兄弟の竹中重利が豊後高田で一万石を与えられた。
中川秀政は信長の娘婿となり、岡城を与えられた。
秀吉の死から関ヶ原までの間に改易された大名が三家ある。いずれも、豊後に領地を持ち、朝鮮遠征軍の軍監をつとめていたのだが、報告が気に入らないという加藤清正らの意を受けて前田利家の死後に家康が中心になって処断した。
太田一吉は美濃の出身で蔚山城攻防戦で奮闘したが、臼杵六万五千石であった。
近江の検地や朝鮮出兵などに活躍した早川長政は、豊後府内から蔚山籠城時の援軍が十分でなかったとして杵築に移された。
熊谷直陳は、近江出身で安岐二万石。垣見一直は国東半島の富来二万石。直陳と一直は関ヶ原戦後も大垣城で徹底抗戦を主張したが東軍に寝返った相良、秋月などによって謀殺された。直高は伊勢に逃れて自害。
福原直高は豊後府内五万石。大分城の築城者である。石田三成の娘婿だったという説もある。
大分という名は明治になってからのもので、もとは府内といった。大分というのは、その所属する郡の名である。この名が示すように、この地には、豊後の国府が置かれており、また、大友宗麟の居館も国府のあとに置かれた。
そういう意味で、国府、守護所、城下町のいずれもがという珍しい例ではあるが、場所はそれぞれ微妙に違った。大友氏の居館は、大分駅の裏手に広がる上野ヶ丘台地で、国府はそこから南に下る傾斜地で元町といわれるところ、そして、城下町は大分川の河口付近であった。
宗麟の子の義統は、秀吉から豊後一国を安堵されたが、朝鮮遠征で臆病にも戦わずに退却したとして除封された。そのあと、豊後は小大名に分割され、江戸時代を通じて中心的な町は現れなかった。
大友氏改易のあと大分には、石田三成の娘婿ともいわれる福原信高が入り、海岸部に城を築くように命じられた。現在は埋め立てが進んで面影がないが、かつては、住吉川の河口の荷揚場であり、城の北西側が海に連なっていた。小倉城に似た立地であり、秀吉が好んだ城の典型である。大分もほかの多くの城下町と同じように、豊臣秀吉が実質的な建設者なのである。
石垣には、軟弱な地盤を補うため、石垣の中段に狭い犬走りを設けるとかいった工夫も見られる。三層の天守閣は失われたが、一部の櫓などが残り、県庁所在地にささやかながら城下町としての風格を添えている。
明治初年の写真を見ると、堀には蓮が一面に茂っていたようだ。
豊後の国の海岸は複雑な出入りのあるリアス海岸になっているので、入り江の奥に小さな丘があって、そこに城が築かれるというところが多い。
そんななかで、一番由緒と風格がある城下町は臼杵である。
キリスト教に改宗したのち大友宗麟は臼杵に移って、遠浅の海岸に孤立した瓜生島に堅固な城を築き、教会堂の建設にも協力した。
もっともいまでは、まわりは市街地になっているが、辛うじて畳櫓と卯寅口門櫓が残る。さらに、古い武家屋敷や寺院が残り、二王座付近の凝灰岩を削った坂道の、見通しが余りきかず、角を曲がるごとに新しい景観が広がり、宗麟時代の豊後を偲ばせてくれる美しい町である。
城に近い臨海部に町家、山麓に武家屋敷という配置が面白い。武家屋敷としては平井家住宅が公開され、明治になってからのものだが、旧藩主稲葉家の下屋敷もある。
郊外には国宝の磨崖仏があって、我が国における石仏の最高傑作群である。また、伝統的にフグ料理が盛んである。
ここの稲葉氏は、淀藩とは別で、西美濃三人衆のひとり稲葉一鉄の系統である。
大分県は小藩乱立だったから、このほかにも、いくつかの城がある。木下家の居城・日出城は城の下の海に沸く泉のまわりに集まる城下カレイで知られるが、かつては築城の手伝いにあたった細川忠興の小倉城に似た破風のない三層の天守閣があった。
杵築は、城下町が海沿いの小高い丘にある城と谷を挟んだ高台にある珍しいところだが、武家屋敷が並ぶ勘定場の坂から城を遠くに望む角度が美しい。
佐伯城跡では大手前から八幡山麓に沿って養賢寺まで続く通りが、「歴史と文学の道」と呼ばれ、武家屋敷が残り、「日本の道百選」にも選ばれている。
※文中イラスト画は「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎」(光文社知恵の森文庫) 「日本の百名城」(ベストセラー新書)より