「ちむどんどん」が歴代最悪の朝ドラであるワケ

NHKの朝の連続ドラマ「ちむどんどん」の脚本のひどさは、最終回へ向かってさらにエスカレートしそうだ。

朝ドラ主人公は、「いかにも出来の悪い親に育てられ世間常識がないがおせっかいな若い女性が、周囲に迷惑をかけつつも成長していく」というのが基本パターンである。

話を引き延ばすためにもどかしいことが多く不愉快だが、今回の「ちむどんどん」は、主人公の青柳暢子(黒島 結菜)という女性料理人が、周囲に迷惑をかけ続けながら、何もいっさい成長しないまま最終回まで走り抜くという「新機軸」だった。

家族以外のお世話になった人に十分に感謝しているように見えず、むしろ、うまくいくと「自分のことを分かってもらえた」という受け取りしかしていないように見えるし、危うく自分の至らなさで大失敗に終わりそうだったことを救ってもらっても、「冷や汗ものだった」とは思わない。なんだか助けてあげたいというタイプの子でないし、うまくいっても、良かったねという感情もわかない。史上最も愛されない主人公で、黒島さんの将来が心配という声も出るほどだ。

登場人物相関図
NHK「ちむどんどん」公式サイトより

いよいよ最終週に突入だが、主人公の暢子(黒島 結菜)は、たくさんの人に世話になって開業し、ようやく軌道に乗った杉並の沖縄料理屋を中途半端に放りだして沖縄の山原に帰るようだ。

夫の和彦(宮沢 氷魚)は、幼い頃に一時期、民俗学者の父親と二人で沖縄にいたことがあったが、大手新聞社の記者として働いているときに暢子と再会した。同僚のいかにも人柄も良くできた女性記者 (飯豊 まりえ)と婚約していたが、あまり理由がよく分からないまま暢子の方に傾いて結婚した。

ちょっとした不祥事を起こし、フリーライターとなってそこそこ仕事はしているが、沖縄をライフワークにして取り組みたいとかいってる。だが、沖縄についても何冊か本を書いている私が思うに、沖縄の本はそれほど売れないし、それを題材にして定職なく食べていくことはほとんど不可能だ。

しかも、和彦の気位が高く文学好きの母(鈴木 保奈美)は、この無理な結婚に反対していたのだが、結局渋々承諾し、孫ができたことに喜んでけっこう暢子にもよくしている。それなのに、沖縄に息子夫婦が突然、行ってしまったらほとんど会えなくなるが、話し合いもしていないようだ。

もっとも、幼稚園児くらいの長男がいるが、住むのが都市部でなく山原の農村というから、当時の状況からすれば受験教育など出来る環境でなく、一流私大あたりは卒業しているとみられる和彦と同等の教育を受けようとしたら、小学校五年生あたりから東京の祖母のところに送るしかないだろうと思う。

西洋料理のシェフをめざして暢子が東京に出てきたのは、先に上京した兄(竜星 涼)を追ってのことだが、この兄はマルチ商法などで一攫千金をめざしては瞞されるのを学習能力なく繰り返しているが、周囲はそのたびに許して尻拭いをしてくれる。

上京したものの兄が行方不明で途方に暮れたが、偶然、鶴見で沖縄県人会の会長という人物(鶴太郎)と巡り会い(実は暢子の父親と旧知)、その世話で、元カノの女性(原田 美枝子)が経営する銀座の高級イタリアンに就職するが、なぜかこの女主人が父親の伯母であることが後に分かる。

しかもこの県人会会長は、やや反社的臭いを漂わす人物で、イタリア料理店がヤクザに狙われて苦境にたったら、顔を出してシベリア抑留中にヤクザを救ったということで手を引かすが、ヤクザに足を洗えと諭すわけでもなく、俺の昔の女だから手を引けというだけだ。裏社会に顔が利くのが大人物だという価値観炸裂だ。

母親(仲間 由紀恵)はいかにも生産性の低そうな野菜作りなどしつつ、村の共同購買施設で働いているが、子供たちのために繰り返し借金をするが、どうしたわけか、返済してはまた借金、を繰り返している。

子どもは長男と暢子のほかに、教師をしている堅物の長女(川口 春奈)と、原因不明の難病に悩んでいる民謡歌手志望の妹(上白石 萌歌)はいちおう真っ当で視聴者に安心感を与えている。

ともかく、沖縄の人ってこんな南国風で脳天気なんだという話の繰り返しで、「沖縄あるある事典」のようで、台詞もしばしばヘイトレベル。

料理の描写もお粗末で、昭和40年代から50年代が舞台だというのに、イタリアンは21世紀のお洒落でミシュランに載りそうなレストラン風。主人公が長い髪の毛を束ねもせずに厨房に立っているので、出す料理は髪の毛だらけだろうとみんな心配になるとか、でたらめばかりだ。

ネットでは、「反省日記」などというスレッドがたつありさまだが、いくら叩かれても軌道修正は頑としてしない潔さで不思議な番組だ。

私と沖縄と堺屋太一さん

私は1985~87年まで沖縄開発庁沖縄総合事務局通商産業部企画調整課長というポストにいた。ややこしい名前だが、沖縄には各省庁の出先をまとめた総合事務局があって、通商産業部というのは、ミニ地方通産局(現在は経済産業局)みたいなもので、それのNo.2だった。このポストの初代は堺屋太一さんで、私が7代目だった。部下はほとんど同じメンバーだったから、若い頃の堺屋さんの武勇伝をいろいろ聞かされた。

そののち、堺屋さんと交流が出来て、とくに首都移転問題や関西復権をどうするかよく議論したし、橋下徹知事誕生のときには、「勝手連つくるから名前貸せ」といわれて協力したりした。

堺屋さんと話をするときのテーマのひとつが豊臣秀吉であって、堺屋さんも大ファンなのだが、なかなか秀吉をテーマにしても売れないと嘆いておられた。菅義偉さんの愛読書である「豊臣秀長」は、秀吉では売れないので、ひとひねりして弟で補佐役の秀長を主人公にしたらどうなるかとされたら、大当たりした。

私の「令和太閤記 寧々の戦国日記」も秀吉では売れないので、寧々を主人公にしたわけで、よく似た動機である。