人口過剰論にひそむアジア人恐怖

増田 悦佐

こんにちは。

今日は世界経済フォーラムを中心に、いまだに欧米知識のあいだに根強く存在する「人口は過剰だ。増加を抑制するだけではなく、積極的に人口の削減に取り組まなくてはならない」という発想の根拠を探ります

人口過剰論はとんでもない無理筋

世界で初めて体系的に人口抑制を唱えたのは、18世紀末の1798年に出版されたマルサスの『人口論』だったと言われています。

それ以降も、折に触れて「現在すでに人口は過剰であり、食料や天然資源が枯渇する危機に瀕している。この危機を回避するには人口がこれ以上増えないような政策を取らなければならない」との主張が語られてきました。

ただ、現代世界に人口過剰論を復活させてセンセーションを巻き起こしたのは、なんといってもローマ・クラブ(Club of Rome)の『成長の限界』でした。

1972年に初版が出版されるやいなや大ベストセラーとなり、翻訳版をふくめると世界中で2000万部以上という、いまだに社会科学系のあらゆる著作の中でナンバーワンの発行部数記録を保持している伝説的な「名著」です。

論旨は単純明快で「このまま地球上に生きている人類の総数が増えつづけ、しかも経済成長によって、その増えた人口がもっと豊かな生活をすれば、ありとあらゆる資源が枯渇し、食料も不足し、人類は滅亡する」というものです。

しかし、私はすでに地球上に存在している人口が多すぎるから、なんとかして削減しなければならない」という主張はまったく経済合理性を欠いていて、まともな議論の対象にすらならない考え方だと思います。

まず、次のグラフをご覧ください。

ちょうど『成長の限界』出版された頃からの、発展途上国の総人口に占める栄養不足人口の推移を描いています。1970年には約35%、つまり3人に1人以上が栄養不足だったのに、2015年にはそれが13%程度に減っています

しかも、1970~2015年の45年間に先進諸国の人口は10億人から12億人程度に増えただけですが、発展途上国の人口は約28億人から68億人へと2.4倍にもなっているのです。

もし、ほんとうに人口が過剰になっているとすれば、さまざまな資源や食糧が不足することのしわ寄せが最初に現れるのは発展途上国でしょう。ところが、上のグラフでおわかりのように、発展途上国の栄養不足人口の比率は大幅に下がっているのです。

どうも、人口過剰論者の主張には、たんに「人口全体が多すぎる」と言っているのではなく、どこか特定の国や地域の人口が多すぎるという意味がこめられているように思えてしかたがありません。

Dmytro Varavin/iStock

人口で圧倒的に優勢なアジア諸国

たまたま、つい最近最新の人口動学による予測が更新されて、今年の11月には世界人口が80億人を超えるという予測が発表されました。

その中で、アジア諸国の人口がどの程度大きな比重を占めるかを示しているのが、次のグラフです。


典型的な先進国と言われ、1490年代から南北アメリカ大陸、アジア、アフリカを次々に征服していったヨーロッパ系白人が主流をなす国々は、北欧、西欧、南欧、アメリカ、カナダ、そしてオーストラリア、ニュージーランドと見ていいでしょう。これらの国々の人口を足し合わせると8億6200万人に過ぎません。世界人口の11%弱です。一方東アジア、南アジア、東南アジア、中東、中央アジアの5地域を合わせたアジアの総人口は、なんと47億3700万人で、世界人口の59%に達してしまうのです。欧米の知識人が、いったいいつまで「自分たちこそ、世界をリードする先進国民なのだ」と言いつづけていられるものか、焦りを感じていたとしても不思議ではありません。

『成長の限界』の仮想敵国は明らかに日本

私が、出版当時の『成長の限界』から受けた印象は、口先では立派なことばかり言っている欧米知識人も、尻に火が付くと態度が豹変するんだなあ」程度でした。

それまでは、「よしよし、よくお勉強をして我々のマネをしてずいぶん急速に進歩しているじゃないか。もう少しで我々と同じように豊かな生活ができるから頑張りなさいよ」といった日本に対する論調が、突然「成長率が高すぎてけしからん」に変わったからです。

実際、まさに高度成長経済もラストスパート期に入っていた日本経済は、欧米知識人の恐怖心を掻き立てるのも当然というパフォーマンスをしていました。


日本の1人当りGNP(国内総生産ではなく国民総生産=Gross National Product)が1900年までガーナより低かったというあたりはご愛敬です。それにしても、もし1961~68年の実質9.9%という成長率がそのまま続けば、2000年には1人当りGNPがアメリカの2倍を超えてしまうというのは、欧米人にとって穏やかならぬものがあったでしょう。それまでの「成長は美徳」が、あっさり「成長は人類を滅亡に追いやる害毒」に転換してしまったのも無理もないといえるほど、日本の高度成長は脅威だったのです。

潜在するヨーロッパ人の「物質主義」

そこにはまた、経済成長につれて「日本人だって我々と同じように高カロリー食を食べ、同じようにモノを大量消費するだろう」という思いこみがありました。

じつは、産業革命が本格化する18世紀半ばまで、ヨーロッパはユーラシア大陸の既知の文明圏の中でいちばん一般庶民が貧しい暮らしをしていた地域でした。

「それなのに、南北アメリカ大陸やアジア・アフリカ諸国を侵略し、征服したのか」と思われるかもしれませんが、むしろ自国では貧しい生活しかできないからこそ「海外雄飛」を図ったのです。

とくに食べものという生きるためにもっとも重要な物資についての発想には、何世代かにわたる食体験がしみこんでいるので、長い貧乏暮らしに耐えてきたヨーロッパ人のあいだでは、いまだに我々にとってびっくりするような知見がかいま見られます


これも『成長の限界』に掲載されたグラフのひとつですが、摂取カロリー量が増えれば増えるほど平均寿命は伸びるという驚くべき考え方が、率直に描かれています。このグラフでは、動物の肉1キロカロリー分を生産するには、穀物や草を中心とした肥料7カロリーが必要だという前提で、動物性食品から摂取する1キロカロリーは植物性に換算すると7キロカロリーに相当すると仮定されています。それで1日の摂取カロリーが最低でも2500キロカロリーから最高では1万1000キロカロリー近くというとんでもない数字になっているわけです。なお、このグラフに描かれた黒丸は1953年時点で実際に計測されたカロリー摂取量と平均寿命の組み合わせとなっていますが、当時正確にカロリー摂取量を集計できていたのは欧米諸国がほとんどですから、圧倒的に欧米に偏ったサンプルだったはずです。それにしても、カロリー摂取量が増えるほど平均寿命が伸びるという考え方は、「カロリーの過剰摂取は肥満を中心とする弊害が多く、寿命を縮める」とする現代栄養学の常識にも反していますし、「腹も身の内、ほどほどに」という日本の常識ともかけ離れています。問題は「これまでは食いものにも不足しながら、なんとか経済成長を優先してきた日本人が豊かになってしまったら、いったいどのくらい世界全体の食糧需給が逼迫するのか?」という懸念が、次のようなグラフににじみ出ていることです。


日本は貧しくてあまり食べられない動物性タンパク質を、東アフリカや西アフリカ諸国のように植物性タンパク質で補って、なんとか必須タンパク質摂取量にあと一息まで迫っている。だが、必須カロリー摂取量にはまだほど遠い」というわけです。「これだけ粗食に耐えてきた日本人が、豊かになったらいったいどれほど食糧を海外から輸入するものやら」と不安に感じていたわけです。そもそもここに出ている2800キロカロリーという必須カロリー摂取量自体が、現代栄養学では過剰で、まさに当時の日本人が摂取していた2000キロカロリー台前半のほうがはるかに健康的なのですが。

天然資源についても同じような恐怖心で日本を見ていた

将来日本がどれほど多くの天然資源を消費することになるのかについても、まったく同様に過剰な資源を浪費してきたアメリカのたどった道をそっくりマネすると見ていました。


ご覧のとおり「1人当り工業生産高は世界平均の8倍に達しているのに、1人当り資源消費量は世界平均の7.5倍に過ぎないから、ほんの少しアメリカのほうが資源の消費効率がいい」ことになっています。問題は、工業生産高が8倍に達していれば、もっと効率よく生産活動ができて消費資源量はずっと少なくていいはずだということに、アメリカだけではなくヨーロッパの知識人も気づいていなかったことです。実際には1970年当時からアメリカの資源消費効率は、以下3点の理由によって先進諸国の中でほぼ最低でした。

  1. どこに行くにもクルマで行くので、人間の体重の15~20倍に当たる重量をムダに運搬するためにエネルギーを使っている
  2. 世代交代のたびに若い世代は新興都市郊外に家を建て、父母の世代の建てた家が大量に廃屋として建ち腐れのまま放置される
  3. とくに貧困層で、過剰なカロリー摂取をして寿命を縮めながら食糧を浪費している

ローマ・クラブに参集した学者たちにはヨーロッパ人も多かったのですが、それでも「先進国になれば、どこの国もアメリカン・ウェイ・オブ・ライフに順応していく」と信じこんでいたわけです。

だから、日本がアメリカ並みの生活水準を達した頃には鉄鋼消費量もアメリカ並みになり、鉄鉱石、コークス、燃料炭に対する需要もアメリカ同様大きくなると想定していました。

しかし、この懸念はまったく取り越し苦労でした。日本は1990年代初めのソ連東欧圏崩壊期に一時的に粗鋼生産高で世界一になったことがあります。

ですが、ちょうどローマ・クラブに余計な心配をしていただいていた頃から「もう物量で勝負する時代ではない」と悟って、1970年代以降一貫して粗鋼生産高は1億トンから1億2000万トンのあいだで横ばいを保っています

ローマ・クラブもサービス主導経済への転換は感じていたが

前の「1人当り工業生産高と資源消費量の相関性」のグラフに戻っていただきますと、同じ資源消費量で工業生産高に比べて1人当りGNPはかなり大きく、しかも資源量が多くなるにつれてその差がますます開いていることが、上側の横軸に出ています。

つまり、社会が豊かになるにつれて人々の欲求はモノからサービスに転換し、その結果同じ資源量でもより多くのサービス消費がおこなわれることによるGNPの伸び率が高まることは、経験的に彼らも知っていたはずです。

それなのに、なぜ強引に「経済成長が続くと、資源が枯渇する」という結論に持ちこんでしまったのでしょうか。

「資源枯渇論」でこれだけデータを揃えたのだから、今さら実証的には反対方向に経済が動いているとわかっても、結論を変えるわけにはいかないと思ったのでしょうか。

そこまで横着な人たちではなかったでしょう。きっと「資源制約があるから、成長を続けてはいけない」というメッセージの中に「世界を教え導く立場を数の力でアジア人に譲り渡すなどもってのほかだ」という政治的な配慮がこめられていたはずです。

『成長の限界』が大胆に打ち出した反成長論は、欧米知識人のあいだではほぼ想定どおりに熱狂的な支持者を見出したようです。

今を時めく世界経済フォーラムでさえ、無邪気に「科学技術の進歩」を賛美する一方、経済と人口の成長は厳格に抑制する方針を持っています。表には出していませんが

しかし、その他世界、とくにアジア各国ではほとんど支持基盤を確立できていないと思います。

たんに、アジアは、欧米諸国がすでに終えてしまった経済飛躍期を迎えているからというだけではなく、「資源の枯渇」を根拠にしているように見える反成長論が、じつはアジア人口がますます大きくなることへの警戒論だと見抜いているからでしょう。

アジアの優越は欧米が危惧するとおりに実証されてきた

日本は経済成長率が鈍化してからおとなしくなりましたが、いつまでも欧米主導の世界を維持したがる人たちにとっては「一難去ってまた一難」どころか、「一難去ってまた十難」あるいは「一難去ってまた二十難」という状況になっています。

アジア人一般が、アメリカ国民のホーム、自分たちにとってはアウェイで競争しても圧勝しつづけているからです。

2019~20年は、いろいろなことが様変わりした時代の転換点でした。今は、コロナ騒動が最大の関心事であり続けていますが、何十年後かの将来「このとき何が起きたか」でトップにランクされるのは、次のグラフが示す事実ではないでしょうか。

正規雇用労働者のあいだで、アジア人男性のほうが白人男性より週給が高いのは、かなり以前からのことでした。

しかし、2019~20年で、ついにアジア人女性のほうが白人男性より週給が高くなってしまったのです。

なお、このグラフの出所であるアメリカン・エンタープライズ研究所は共和党保守派のシンクタンクですから、この事実を「アメリカに人種や性にもとづく差別が存在しない」ことの証拠だというかなり無理な議論をしています

「もし人種差別や性差別があるとすれば、当然差別される側に立つはずのアジア人女性が白人男性より稼いでいることが、差別はない証拠だ。ヒスパニック、アメリカンインディアン、黒人が低所得なのは、結婚もしないうちから子どもをつくってしまうようなだらしのない生活をしているからだ」というわけです。

性的放縦さをとがめるべきはむしろ白人世帯

アメリカンインディアンや黒人の新生児の約7割が未婚の母から生まれているのは、たんに生活態度の問題でしょうか。どちらも、元々は非常に家族のきずなを大事にする文化圏で生まれ育った人たちです。

インディアンの場合は、絶滅寸前まで殺された上に、生き残った人たちはことばも生活習慣も違うさまざまな部族がいっしょくたに居留地に閉じこめられ、強制的にクリスチャンになるよう教育される中で、家族のきずなも分断されたのではないでしょうか。

黒人たちもまた、船底に荷物同然に詰めこまれた長い航海の中でも、競り売りでだれに買われるかの段階でも家族がバラバラにされ、おまけに奴隷の産んだ子はすべて奴隷所有者の私有財産として育ち、高値で売れることから、多産系の女性には相手かまわず子どもを産ませるといった奴隷主が多かった歴史が家族のきずなを分断したのではないでしょうか。

むしろ、白人世帯でもシングルマザーから生まれる子どもの比率が3割近くに高まっていることのほうが、性的な放縦さの結果である可能性が高いような気がします。もちろん、低学歴・低所得の白人世帯では家庭崩壊が起きやすいことも大きな理由でしょうが。

アジア系アメリカ国民の所得水準は一般的に高い

さて、「一難去ってまた十難」というやや大げさな表現をした理由は、次の表でお汲み取りいただけると思います。


たんに人数で勝てないだけでなく、仕事をする能力でも勝てないとわかってきたことが、最近また欧米で移民・難民に対する迫害が頻発し、人口過剰論が勢いを得ている大きな理由だと思います。■

増田悦佐先生の新刊が出ました。


編集部より:この記事は増田悦佐氏のブログ「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」2022年10月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」をご覧ください。