退歩する世界:歴史は繰り返されるのか

川口 マーン 惠美

この頃、10年も前にドイツで見た映画をよく思い出す。『In Time』(邦題『TIME/タイム』)。冒頭に荒れ果てた街の絶望的なシーン。人々はみすぼらしく、工場では産業革命時代のままのような錆び付いた機械がどうにかこうにか動いている。スラム街のような住宅では、蛇口を捻っても熱いお湯も出ない・・。いつの時代かと思うと、これが未来の話なのだ。

「え、なぜ?」と思いながら、あっという間に引き込まれていく。

ここ未来の世界では、科学の進歩のおかげで病気はなく、肉体の老化も25歳で止まる。つまり、皆、見かけは若い。その彼らの腕にはディスプレイが埋め込まれ、そこに光っている数字が刻々と減っていく。数字は時間で、恐ろしいことに、実はそれが彼らの残りの寿命を示している。

時間は、また貨幣でもある。賃金は時間に換算されて腕のディスプレイにチャージされる。買い物や電車賃などの支払いも、全て腕のディスプレイをタッチして行う。つまり、お金が入れば寿命が延び、消費すると死が近づく。2人の人間が腕のディスプレイを合わせれば、時間をあげたり貰ったりすることもできる。

赤ん坊は腕のディスプレイに1年の寿命を持って生まれてくる。これは25年間は作動しないが、25歳の誕生日にボン!というショックと共にスタートし、以後、数字は刻々と減っていく。つまり、働いて時間をチャージし続けなければ、寿命は1年で尽きるわけだ。

しかし、どんなに働いても、なぜかぎりぎりの時間しか稼げないようになっている。だから、そのうち誰もが疲れ果て、それどころか、あちらこちらで時間切れになった人が、0になったディスプレイを晒して死んでいく。25歳の姿のまま。

そんな過酷な世界で、あるとき主人公のウィルは、偶然にもある男性を助けた。男は、肉体は未だに25歳のままだが、すでに100年以上も生きているという。そして疲れ果てて言う。「もう、そろそろ死にたい」と。翌朝、ウィルが目を覚ますと男はおらず、ウィルは自分の腕に117年の数字が光っているのを知って絶句する。寝ている間に男がくれた時間だ。その時、ウィルは気づくのだ。どこかに彼の失った時間を搾取している者たちがいるはずだと・・。

ここからウィルの大活躍が始まるのだが、最近の私は、ひょっとすると私たちの未来も、この映画のようになっていくのではないかと思い、慄然とすることがある。貧しい人たちが豊かになれば、権利の主張が始まり、限られた資源の取り合いで、富裕層にとっては居心地が悪くなる。

そこで一握りの支配者が思いつくのが、寿命のコントロール。働けばどうにか生き延びることができるという仕組みを作れば、生きたいという本能に従って、人々は死に物狂いで働く。こうして労働力を確保し、人口過多は、賃金カットや食料供給の調整、あるいは特殊なウイルスを放つことでコントロールすれば、支配層は安泰だ。恐ろしいが、ありそうな話に思えてくる。

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私が子供の頃、お湯は沸かすものだった。それが、いつか蛇口をひねれば出るようになり、今では皆が毎日、気軽にお風呂を満たし、シャワーを浴びている。単純な例だが、私はこの事実が、私たち庶民が一律に豊かになったことを象徴していると思っている。

戦後の日本は復興の過程で、他の多くの国のように、一部の大金持ちとその他の貧民という社会構造にはならなかった。昔の政治家の頭の中には、私利私欲もあったかもしれないが、それでもどこか心の底に、「日本」という動かし難い土台のようなものがあったような気がする。それこそがおそらく奇跡の経済成長の秘訣だったのだ。同じことは、やはり荒廃から立ち直って立派な国を作ったドイツにも言えたと思う。

こうして、いわば恵まれた発展の道を歩んだ日本人は、90年代にバブルが弾けたときでさえも、文明のさらなる進歩と生活の向上を疑うことはなかった。ところが、俄にその確信に翳りが差し始めている。私たちは、今も豊かになる道程にいるのだろうかと。

日本の実質賃金指数はこの30年で全く伸びていないどころか、1割も下がっている。こんな国は先進国のどこにもない。せっかく縮まってきていた貧富の差は再び広がり、それどころか、文明の要である電気の供給までが不安定になっている。停電など発展途上国の抱える問題だと思っていたのに、気がつくと、今や自らがその淵に瀕しているのだから、私たちの社会は進歩ではなく、退歩している。

戦前の日本は石油封鎖で追い詰められて戦争に突入したが、今も、日本がエネルギーを自給できない事情は何ら変わっていない。ただ、いつしか私たちは、お金さえ積めば何でも買えると信じて安穏としていた。ところが今、急に、輸送路の不穏などという、想像もしていなかったことが現実味を帯びつつある。

想像もしていなかったといえば、疫病もそうだ。伝染病を制御できず人が死んでいくのは発展途上国ゆえの悲劇かと思っていたら、新型コロナで極度に混乱したのは先進国だった。そして戦争。ヨーロッパの一角がいかに簡単に戦場になってしまったことか。しかも、主要大国が民主主義の防衛という名の下に、戦争の当事者に武器と軍資金を与え、戦意高揚の発破をかけている。

特にドイツは戦後70年間、平和志向が極めて強く、「国防」やら「祖国」やら「愛国心」を口にしただけで非難の目を向けられ、軍人は肩身の狭い思いをしていたのだ。ところが、今や公営放送が、ロシア軍を追い出し、武器や国旗を頭上に掲げるウクライナ兵の勇猛な姿を、あたかも英雄を讃えるように報道している。ドイツ人は武器を手にせず、しかし、ウクライナ人がロシア兵を殺すことがいつの間にか正義になっているところが限りなく怖い。主要メディアのこの豹変を、ドイツ人は何か変だと思わないのだろうか?

ウクライナ危機以後、日独の間の飛行ルートはロシア上空を回避するため、南回りか北回りになっており、これも冷戦時代に逆戻りだ。冷戦終了後、次第に混乱が去り、人の移動が増え、航空運賃が下がり、ようやく少し頑張れば誰もが海外に行ける有難い時代になったのに、今後、海外旅行は再び金持ちの贅沢品に戻ってしまうかもしれない。

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私たちは錯覚に陥っていたのだろうか。それとも、歴史に報復されているのか。階級社会も、疫病も、戦争も、停電も、貧困も、少なくとも西側先進諸国では克服されたか、されつつあると思っていた。だからこそ、それらがまだ色濃く残っている発展途上国を助けるために、先進国が力を合わせるはずではなかったか。それが今、先進国は再び分裂し、自分たちのことで必死だ。

民主主義の名の下で、政治や選挙、司法に対する信頼も次第に崩れつつある。言論の自由さえ、すでに侵食され始めた。この上、貧富の差がさらに広がり、世界が少しずつ、一握りの裕福で長命な支配者層と、労働に追われて一生を終える労働者が住む場所になっていくなら、その先にあるのはまさにウィルの暮らしていた世界だ。

1ヶ月ほど前に日本に帰国したが、日本では、いまだに人々がマスクを取らないまま暮らしており、表情が見えない。日常生活には、小さな子供にちょっと微笑みかけたり、感謝を会釈で表したいシーンというのがしばしばあるが、無意識のうちに、「どうせ笑っても見えない」と思っている自分に気づく。

知らない人同士の微笑みが消えた世界は、匿名性の高まった殺伐とした空間だと感じる。そんな時、ふと、やはり殺伐としていたウィルの世界が頭を掠め、とても憂鬱になる。