水泳とエリート教育:欧州の「教育格差」を日本人は何も知らない

リベラル系のジャーナリストやテレビ局が「海外」の教育がゆるい、ゆとり教育だと言い張るのを鵜呑みにしてきた日本人は多い。しかし実際は、日本以外の先進国ではゆとりどころかスパルタ教育が当たり前という部分があるのだ。

これはどういうことかと言うと、教育の格差が凄まじいからである。

私が2021年12月に出版した「世界のニュースを日本人は何も知らない3 – 大変革期にやりたい放題の海外事情」という本にも書いたが、実は北米も欧州も階層の上部であるエリートの一部は、日本以上のスパルタ教育が今でも行われている。

感覚的には戦前の日本の士官学校や旧制中学の厳しい教育に似たような感じである。学業はもちろん運動もせっせとをやらされ文武両道を目指すのだ。

ところがこういったエリート教育の存在は日本のメディアにはなぜか登場しない。なぜなのかを私は考えることがあるが、まず報道の企画をする人間やジャーナリスト、ライターには左翼思想の影響を強く受けている人間が多いために、左翼の理想に沿った教育や学校を取り上げたいためではないか。だから海外でも極端にリベラルな思想を実践する学校や地区、さらにリベラルな政権が強い地域の公立の学校を取り上げたりする。

イギリスの上流階級の男子寄宿学校 イートン カレッジ Jun Zhang/iStock

こういった教育関係の報道を行ったり、教育関係の書籍を出すテレビ局や出版社というのは往々にして左翼系のところが多い。

だから彼らは極端にリベラルな教育を行っている学校を全体のように取り上げるのだ。例えば1日中森で過ごす幼稚園とか、カリキュラムが全くない学校といったごく一部の特殊例である。

2点目に彼らがエリート教育を行う「階層」とは接触がないからだ。つまりそういった階層とはお付き合いがないために伝えることができず、存在すら知らないということもある。

存在を知らないので、中流以下や底辺層に提供されている「ゆとり教育」、つまりカリキュラムを削りまくり、「最小限の資源しか投入されていない質の低い教育」をまるで海外の先進国が全て提供していますといった論調で報道するのである。

さてこのような人々が報道しない先進国の上層部の教育のやり方の一つを象徴するものに水泳の授業がある。

最近の日本の学校では水泳の授業が削られまくれ、ほぼ水遊びのようなことしかしないので、親は子供をスイミングスクールに別にいれなければ、泳げるようにならないという実態があるようだ。

欧州の場合、学校の水泳の授業をやっているところは財政が豊かな地域の公立の学校や、私立の学校に限られる。そもそも全部の学校がやっているわけではない。プールがない学校が多いからだ。

欧州北部の場合は、北海道の奥地の様な気候のため、夏でも室内プールが必須だ。

燃料費が高騰している最中でそのようなプールの運営費を払える学校は多くはない。元々階級格差がすごいので、そんな豪華なプールがある学校や地域ばかりでもない。

民間のスイミングスクールに通える人々も多くはなく、とにかく収入格差が大きいので、月に5000円から10,000円程度のスイミングスクール代を出せない人も多い。

したがって、水泳の授業はある意味「特権的」なところがある。このため「特権がある人々」の水泳のレッスンには力が入っていて、日本のような水遊びは許されない。

これは進学校や、伝統的な私立になればなるほど顕著だ。水泳が社会的階級とステータスを示すシンボルになるからだ。

泳げる、しかもタイムを競うような競泳のレベルでできる、ということは、冬でも泳げる環境のプールに「アクセス」があり、指導を受けることができ、練習を積んできた、ということの証明になる。

つまりそれだけの財力、温水プールを所有できる地域に住んだり学校に通い、プロの指導を受けてきました、ということを「誇示」できるのである。

いたるところに市営の激安プールがあり、学校にもプールがある日本とはその点が違う。欧州は貧困な自治体、貧困な学校はプールがなく、治安が悪いところはプールが破壊されたり強盗が入るのでプールを建設できないし、警備費用が出せない。

イタリアやフランス、スペイン、ギリシャの海沿いなら海や湖で泳ぐことができるが、しかし夏の時期だけだ。競泳レベルになるにはやはり指導が必須である。

水泳の訓練には費用も時間もかかるので、指導員も多くはないのだ。したがって、欧州では、水泳の授業では、ポロのユニフォームのように、競泳用の水着をびしっと着用して延々と泳ぐ。

そう、水泳が特権だからだ。

イギリスの場合は小学校が日本より始まるのが早いが、進学校や伝統的な私立だと、4歳ですら水遊びの時間はない。

実家がが金持ちだが勉強は不得意な子供が通う緩い私立でも同じだ。大人がやるような競泳の授業で、7歳にもなれば500メートルから1キロの距離を泳がされる。できない生徒は鉄の棒で突きながら泣いても泳がせる。

驚くべきようなスパルタ教育だが、「将来リーダーになる人間はこの程度のことは耐えろ」、前線に送られたら水に浸かりながら部隊を支持することもあるわけだから、「できて当たり前だ」「できない人間はリーダー不適格だ」という考え方が下地にある。

水泳は精神と肉体訓練の場なので、遊びの自由はなく真剣勝負、そういうわけで、水着の自由もまったくないわけなのである。