日本の左派リベラルはオワコンビジネス

左派は暴走ではなく生き残り戦略をとった

1990年代から始まった日本のデフレ不況社会が、どうやって立ち直り、どうやって次の時代に向かっていくのか?が、ここ20年くらい、常に問われてきた。

1990年代以後、最初の10年くらいは、落ち込んだ日本の経済、気持ちが落ち込んだ社会をどう立ち直させるか?に集中してたと思う。

ところが2000年代から2010年代の自民党政治の頃、私たちは、自民党政治への不信感だけが募り、
「お前らが作ってきた日本なんだからお前らが何とかしろ!」が、次第に国民の本音として叫ばれるようになってきた。

その結果、「ふざけんな!」が最高潮に達したが故の旧民主党政権誕生であった。ところがいざ任せては見たものの、結局、彼らは野党はできても政権を担う力は無いことが証明されただけで、2013年の第二次安倍政権誕生の生みの親になったに過ぎない。

日本の戦後政治はいくら日本社会党が自民党との55年体制を作り上げてきたとは言え、実態は自民党内政局の結果だった。

勿論、自民党の中でリベラルな立ち位置だったり、左派政党に近い考え方の政治家が、自民党から少数政党を誕生させてきた経緯はあるし、小沢一郎のように、大鉈を振るって政治を変えるかも知れないと国民に期待され、それが戦後政治の転換点になると切望した国民が野党を盛り上げてきたことはあるし、それに便乗し、自民党内にいても鳴かず飛ばずの政治家人生から、「一丁、大博打でも打ったろかい」と思った政治家が、二大政党制に便乗してきた。

そんなこんなが旧民主党への期待と盛り上がりだった。何せ、それまで自民党にいた連中が、新たな政党を生み出したのだから、それを冷めた目で見てきた有権者ほど、自民党内政局が政党対政党という政治手法の対立構造として具現化したからこそ、旧民主党に期待したのだ。

これ、とても大事な視点で、今、自称リベラルと言われる人たちは、その時の思い出の中に酔いしれているだけなのだ。

何故、私が正直に本当のことを言うかと言うと、政治の本質は経済だからだ。国民を豊かに出来ない政治家は、表舞台から引き摺り下ろされる。日本の自称リベラルは、政治心情的に自分はリベラルであると思いこみ、その本質は「自由」であると同時に「平等」という概念を織り込もうとしている。

アメリカの共和党と民主党のせめぎ合いを再確認すれば、「自由」と「平等」の相克が今のアメリカ社会を形成してきたことは歴史が証明している。むしろ、日本の自称リベラルには「自由」ではなく「平等」が重要であると勘違いしている人が多い。

それが「反差別」「反原発」「改憲阻止」「普天間基地移転反対」「LGBTの保護法制化」「夫婦別姓の法制化」と、バラバラの主張につながる。要は、リベラルな政治思想史と言葉の本質を理解していない。ただ自分達が言ってることが、保守層とは違うと言うだけのことで、そこに存在する矛盾などどうでもいいのだ。

私は政治の本質は経済だと言ったが、国民が豊かになったと思えなければ、政治的な主張など、無意味なのだ。いくら「人権ガー」「平和ガー」「原発ガー」と言っても、それは絵空事にしかならない。

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日本の左派リベラルの誤解

この矛盾点を認識しているかいないかはとても大事だ。何故なら、日本のリベラルの多くは必ず「市民」と言う言葉を使う。フランスの労働者階級の市民革命を意識し、民主主義とは資本家や特権階級から解放された市民が中心となる公平平等な社会のあり方を理想としているからだ。

ところが、肝心のリベラルの語源はアメリカの社会思想が元になっている。フランスの市民革命は社会主義に通じ、アメリカのリベラル思想は地域コミュニティの社会「正義」とは何か?を問うたものだ。多分、日本で「私はリベラルだ」と言ってる人の9割くらいが、その語源すら知らないだろう。

そしてここに、日本独特の移民史が重なる。55年体制の場合、日本社会党の背後には、在日朝鮮人や部落問題が横たわっていた。彼らがこの日本で権利主張するには、保守層が固まる自民党とは真逆の政党を支援するしかなかった。

在日朝鮮人や旧部落出身者は、左翼思想や社会主義とは何か?など、知りもしないし、はっきり言ってどうでもいいと思っている。そうではなく、自分達の権利確保のためには政治の世界に足を踏み入れるしかいない、そのために社会主義者を利用したのだ。幸い、社会主義の考え方には、平等とか社会的弱者とか耳に聞こえのいい言葉が並ぶ。それならこれを利用しない手はない。そのあたりは、日本国憲法を利用しまくっている日本共産党と相通じるものがある。

日本共産党は実際に日本に共産主義を根付かそうなどとは、1ミリも思っていない。戦前戦中戦後と日本に輸入され思想的、哲学的に練り上げられた共産主義が中国共産党誕生のきっかけになったように、日本の共産主義者はそれなりに自負心があるのだ。自分達の先人こそが、本来の共産主義を誕生させ、理論的、思想的な基礎を作り上げたと本気で考えている。日本のインテリ層に共産主義に毒された人々が多いのは、先輩たちのプライドが、日本で誕生した共産主義の歴史を金科玉条としているからだ。

実は、日本ではコンテンツビジネスが生まれやすい柔軟性と創造性を有しているが、その環境で誕生し未だ影響を与え続けている最大のものが、この日本で生まれた共産主義なのだ。多くの人は共産主義の生みの親はドイツ人のマルクスであり、ソヴィエト連邦が誕生して国家となって大きな影響を世界に与えたと考えているだろう。

実は、欧米で誕生した共産主義は思想的な、或いは構築された論理的なものは大してない。欧米で誕生した共産主義は、合議制とは何か?の追求だったと言っていいだろう。委員会制度で合議を行い、その合議のまとめ役が書記や書記長と呼ばれる人だ。資本家や国家元首が国家の長ではなく、全ては労働者の代表が合議によって答えを出すと言う表向きの国家体制が整った。

では実際の共産主義国家はどうだろう?

共産党一党独裁は、特権階級を生み、独裁体制の国、言論の自由が制限された国、五人組のように互いに監視し合う国が出来上がった。

ソヴィエト連邦のそれはまさに共産党員と共産党中央委員会による独裁体制が、国民を食い物にしたと言っていい。唯一、ソヴィエト国民が溜飲を下げていたのが、東欧諸国や中国のように共産主義国家、社会主義国家が自由主義勢力と対等な数だけ存在していると言うことだろう。

また、東欧諸国の社会主義国家と比べても、ソヴィエト連邦の共産党員はエリート意識が高かったために真面目に真摯に共産主義社会を実現することに邁進してきた。今のロシアのプーチン大統領などは、その典型だろう。彼らはそのエリート意識にのみソヴィエト連邦のへの憧憬があるのだ。

「あの頃は良かった」というやつだ。特にKGB出身のプーチンはその思いが強い。

プーチンの共産主義は専制主義と独裁国家のため

彼はKGBがソヴィエト連邦を支えてきたと本気で信じている。ソヴィエト連邦は周辺国の共産党委員会を抑え込み、ソヴィエトの資源を使って独自の経済圏を構築してきたに過ぎず、また核をはじめとした軍事力で他国への強圧的、抑圧的な専制政治を敷いてきたに過ぎない。第二次世界大戦以後、世界はその冷戦の中にあって、ソヴィエト連邦の影響を抑え込む術を持たなかった。

ベルリンの壁崩壊を機に、ソヴィエト連邦は崩壊に向かう。経済的にもソヴィエト連邦の実態はガタガタであり、もう国家としての体をなさないことが明らかになり、ゴルバチョフ書記長によるグラスノスチやペレストロイカで新たなソヴィエト連邦を模索した結果、民主化に向かう以外に方法が無いことを悟り、やがてロシア建国に向かうことになった。ゴルバチョフ自身は階級社会の共産主義から脱却し、フランスで理想とされた社会主義国家の建国を目指したのだろう。

プーチンが気に食わなかったのが、この点かもしれない。プーチンは統制された国家の象徴がKGBのような組織であり、それでこそが彼の思い描く理想の国家像だからだ。一握りのエリートが国民を統制し、規律に従って、国家を引率する。それに国民は追従し、国家のために日夜努力して働く。そして、共産主義体制が故に国家は統一されてその頂点に指導力と強権を発揮する自分自身が座ることが、理想国家建設の道だと思い込んでいたのだ。

多くの共産主義国家が滅亡した背景は、そんなに多くの理由はない。マルクスが批判した資本主義体制は、そんな理想国家とは真逆の自由の名を借りた格差社会と人々の争いが絶えない国を生むだけだと思い込み、集団指導体制で国家運営を行い、個人の富、財産の私有化を認めなければ理想的な平等な社会が実現すると思い込んでいたが、人が持つ欲はそんなマルクスの理想を容易く凌駕してしまったのだ。

国家が貧しければそれも成り立つのかもしれない。例えばベトナムやキューバのような国だ。教育や医療を国家が面倒見る社会が実現できるのは、富の偏在をよしとしない貧しい国家なら可能だろう。
だが、地下資源が豊富で広い国土を持ち、共産党が実権を握るソヴィエトではそうはいかなかった。またソヴィエトの影響を強く受けた東欧諸国もそうではなかった。権力中枢が全てをコントロールする社会に成り果ててしまったのだ。

理想的社会主義国、日本

ではこの日本ではどうだろう?

最初に触れたように、社会で抑圧されて生きてきたマイノリティは、政治を動かすことで自分達の権利主張を行ってきたのが、戦後日本だ。また国民一人一人が平等な社会の実現は、共産主義や社会主義でこそ実現可能性が高いと信じられてきたからこそ、彼らは保守的な思想の人々が集まる自民党に対抗して、自らを革新と称して、活動してきた。言い換えれば、日本社会でマイノリティだった人々に光を当てようとしてきたのが、55年体制の真の姿かもしれない。

戦前に日本に輸入された共産主義という考え方は、頭の体操が好きな人々にとって代え難いものとなった。貴族社会、華族社会、士族社会の特権階級が支配しているとされた日本において、堺利彦、山川均、荒畑寒山らによって始まった共産主義の胎動が始まったのは、日本の近現代史において必然だったとも言える。当時の日本は新しい学問、思想、政治体制を渇望していたのだろう。

それがやがて日本の教育、政治、法曹界を席巻することになった。

またその日本で学問的に成熟しつつある共産主義に強い影響を受けたのが、中華民国誕生後の中国共産党であり、最初にマルクス主義に影響を受けたと言えど、その理論的な補完をおこなったのが、日本の共産主義者と言っていい。中国共産党の精神的支柱だった李漢俊が、毛沢東や陳独秀に与えた影響は大きかったのではないだろうか?

つまり、誕生の背景は異なれど、共産主義による国家体制構築が理想だと感じ、理論武装を行ってきた東アジアの最初のきっかけは日本の特権階級の知識人だったと見るべきだ。

その血筋が営々と残り続けている日本の知識階級にとって、はっきりと共産主義と謳わないまでも、その思想性の根幹に脈々と生き残り続けている。それが今の日本における左派リベラルだ。

第二次世界大戦を経験した日本は、先の戦争を起こしたのが、天皇制による軍国主義でありそれこそが天皇陛下を中心としたファシズムだという論法によって、日本の保守体制批判のきっかけになっている。また、特権階級であるところの貴族、華族、士族が日本の軍部を支配してきたことで日本国内に階級社会を生み出した。そのことが日本国内の差別や同調圧力の遠因になっていると言う。

だが、戦後日本の自民党政治は、それらの考え方やマイノリティをも包含した自由でありながらも平等な社会を実現することに邁進してきたとも言えないだろうか?

意味じくも、高度経済成長期を過ぎた日本に来た政治や経済の専門家の多くが、「日本は実質的な社会主義体制だ」と言うのは、日本の高度な社会保障制度や、身分や資産の度合いとは無関係な学歴社会が実現し、非常にハイレベルな知能が国家運営の官僚に配されていることもその一因とされる。

確かに、現在、高等教育を受けられる家庭環境にある人が日本の最高学府に進めるという研究もあるが、それでも一介のサラリーマン家庭で普通に勉強を積み重ね、家庭環境とは無関係な才能が開花すれば、誰でも最高学府に進むことができる。実は、これほど平等な社会は欧米でも途上国でも非常に稀有なものなのだ。

左派リベラルの過度な権利主張

今の左派リベラルのマイノリティ擁護に偏った、非常に歪な自民党批判は、日本の左派リベラルが誕生し、現代に繋がるリベラルの風土には馴染まない。差別や格差を否定することはもちろん、当然のことであるとしても、現在の左派リベラルの主張には、日本が本来醸成してきた民主主義の理念から逸脱している。

多くは、欧米で生まれたマイノリティ擁護論をなぞるだけのもので、ようはモノマネだ。それがいけないと言ってるのではなく、猿真似の民主主義など愚かなことであり、果てはマイノリティを特権階級的に法律で守る話まで出てくる始末で、仮にリベラルが民主主義を標榜するなら、それは真っ先にやってはならないことだと言っているのだ。

勿論、多くの事例があるわけではないが、一部には社会の弱者を守るための手段として、公費で運営されている活動がいくつかある。平等で自由な社会を実現するために、民主主義的な手段で選ばれた国会で可決された予算をごく少数のマイノリティのためビジネスとして活用することは、いかがなものだろうか?

やり方、方法論は考えるとしても、マジョリティから集めた国家運営のための予算を、一部マイノリティのためだけに使うやり方は、結局、特権階級を生み出す素地を作っているに過ぎない。日本は高度な社会保障制度を実現した稀有な国であると書いたが、それは平等な社会の実現に通じるし、反面、日本における個人の権利と表現の自由は先進国中でも最も高度な法体系だ。一部、それが行き過ぎている面もあるが、これは経済活動においても同様で、法律の範囲内で経済活動を行う自由が認められている。

であるならば、マイノリティの社会的地位向上を目指して、経済活動を自由に行えばいいのだ。にも関わらず、公費をいかにぶんどるか?に執着している活動も、少なからずある。それは、マジョリティにとってみれば歪さの象徴とも言えるだろう。

そして時代の変遷と共に、本来は習熟され錬成された社会主義思想、共産主義思想でなければならない筈の左派リベラルによる様々な反戦、反核、米軍基地問題、LGBT、差別抑止といった活動が大きな広がりを見せない背景がここにあると考えている。実際に反体制に関わるデモの参加者を見れば、その実態が如実に表象されているではないか。

高齢化が進み、その主張は前時代的なもので、一向に社会の各層に刺さるものとは言えない。

「あの人たちは、ありもしない幻想の中で意味不明な主張を繰り返す、ちょっと怖い人たち」だと、一般大衆は思っているのだ。行動し、視覚的に表現することで、彼らの主張を見せることはできるだろう。しかし、その活動が歪なものであればあるほど、異質な存在になっていく。そこに目がいかないから次第に過激化し、尖鋭化する。つまり悪循環になっている。

確かに前回の日米安保の際には若い世代が世論を喚起するようなデモ活動を行ったが、それとて、結局は野党の政治利用でしかなく、またSEALDsのような団体の背後関係が暴露されることで、活動は縮小しその主張は歪曲されていった。

つまり、左派リベラルの主張と行動は、時代に合わなくなってきているのだ。彼らの尖鋭化された主張に与することで、ビジネスとして成り立たせようとしている輩もいるが、現実は理想には遠く及ばない。野党は支持率を落とし、各地のデモはどんどん参加者が減少している。これは「無関心」が原因ではなく、左派リベラルのピントがズレているだけの話なのだ。

日本人が求めているのは、中道ちょっと右か、中道ちょっと左であって、極端な右も極端な左も、日本人の感性には馴染まない。