インフルエンサーに踊らされる不思議な人々 --- 高梨 雄介

端的に言えば、発言には責任(法的なものに限らない。為念。)が伴うから冷静に振舞ってはいかがか、という提案である。

筆者は義務教育で、自由と責任が一体のものであることを習った。自由とは、無放任に何をしてもよいという意味ではない。自由にふるまっても良いが、そのふるまいには責任を取る覚悟を持つこと。これが社会のルールである、という話だった。

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インフルエンサーが大胆な発言をし議論が巻き起こった、という話を定期的に見掛ける。しかし、彼らは自分の発言に責任を負っているのだろうか。議論に参加して討議を尽くし、議論が実を結ぶまで付き合うのなら良いと思う。けれども実際には、議論を起こして注目を集め、単純接触効果を活用してフォロワー数や視聴者数を増やし、成果を得たところでそっとフェード・アウトしているさまが散見される。議論の熱もそのまま冷める。

もちろんこれは当然のことで、彼らはフォロワー数や視聴者数について責任を負っている。つまりビジネスであり、発言はあくまで材料に過ぎず、その内容に責任を負う誠実さは不要なのである。

そういうインフルエンサーは誤った知識を発信したり、事実誤認に基づく発言をして誰かに迷惑を掛けても、そうそう撤回や謝罪しないと聞く(視聴者が忘れるから放っておくらしい。)。つまり情報がクレンジングされていないから、信憑性を疑ってかかる必要がある。まして、彼らの言葉に踊らされて軽躁な「議論」をまき散らすのは控えるべきである。

例えば、アゴラでも紹介されている延命措置の話は、自分や家族が当事者の人にとっては切実な問題だろう。医療技術が発達した背景、公的支援がなされるに至った理由などの周辺事情もあるはずである。過去に幾度も議論があったものと想像する。

そんな議論に加わるのなら、基礎知識や背景事情をある程度頭に入れ、これまでの議論を参照し、賛否両論の立場を見るのが先だろうと思う。その手間を割かずに、人の命を左右する議論で賛否を表明するのは軽率であり、意見に対する責任の重さを考えると実に恐ろしいことではないか。

他のテーマも同様である。インフルエンサーが「○○はどうなの?」と言えば、何も考えず「○○に賛成」の人に突撃し、「○○はおかしい」とまくしたてる。一般に、日頃から○○について考えている人の方が、インフルエンサーに踊らされて○○に食い付いた人より詳しいし、責任を負う立場にあることが多い。だからこそ発言に熟慮が尽くされていて、洗練されている。そういった人の発言に耳を傾けないのは実に不思議である。本当にその問題を解決する気があるのか。

もっとも、かような煽る系ビジネスは昔からある。(筆者は観たことがないが)ワイドショーなんかも似たようなものらしい。それで金が入るのだから仕方がない面もあろう。

しかし、「突撃」を事実上容認し、自身の発言に責任も取らない状態で、政治や社会のセンシティヴな話題を題材にするのはいかがなものか。まぁ彼らに改善を期待しても暖簾に腕押しだから、せめて視聴者側はいちいち踊るのは止めて、ただ眉を顰めるのが賢明というものだ。

「議論」を巻き起こしたと評価する意見もあるが、彼らが巻き起こしたのは議論ではなく「口喧嘩」に近い。好き嫌いのぶつけ合い、酔っ払い同士の口論の類いである。議論するのなら最低限、複数の資料や文献に当たって根拠のある推論を積み重ねる必要がある。そのような社会的に意義のある議論は巻き起こったか? そもそも、議論する必要のある話題ならとっくに巻き起こっているはずである。

だから、彼らの発言に反対の人は、無視するのが一番良いのではなかろうか。「その話題は大変大事なお話ですから、適した場で真剣に議論しましょう。」というメッセージになるし、巻き起こる「議論」のうち相手をする価値のあるものは稀有である。

賛成の人も、何も調べずに反対派に噛み付くのは控えるべきだ。その発言には軽重あれど責任が付きまとうし、興味があるなら調べるのが先。それに、もっと自分の生活に身近な問題について考えた方が有意義なのではないかとも思え、微笑ましい。

高梨 雄介
上智大学法学部卒業後、市役所入庁。法務関係部門を歴任して数々の例規の起草、審査、紛争解決等に携わる。現在は公共団体職員として勤務の傍ら、放送大学で心理学を専攻中。