脱コロナできない日本人 --- 満田 勝

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終わりが見えないコロナとの戦い

中国武漢に始まり東アジアそして全世界に広がった新型コロナウイルス感染症COVID-19が人類の脅威として登場してから早くも3年が過ぎようとしている。

日本国内でもこの3年間でコロナによる多くの犠牲者をだしてしまう結果になったが、総合的な感染状況は他国に比べかなり抑制的であった。そして国内では過去最多、一時は世界で最も多くの新規感染者数を記録することになった感染第7波も今は収束状態にある。全国旅行支援なる政府企画も開始され、徐々にではあるが街中に以前のような賑わいが戻ってきた。

しかし早くも巷では、次の感染第8波はいつくるのか? その規模は大きいのか? 季節性インフルエンザと同時流行した時の混乱などについて心配する声が聞かれるようになった。第7波が収束したからといって油断せず、気を引き締めてこれまでどおりの感染対策を継続すべきという専門家の意見すらある。

その一方、日本と中国以外の主要国では、コロナ禍はもはや過去の出来事とみなされている。一時はロックアウト状態となり社会活動を停止していた欧米諸国においても、今はごく一部のエリアを除いて2019年以前と変わらない普通の生活を取り戻している。

先頃、全世界に中継されたエリザベス女王の国葬をみてもわかるように英国でマスクを着用している人はほとんどいない。ゼロコロナ政策をとる中国ほどの厳しさはないものの、日本と価値観を共有しているはずの欧米の対応との違いはどこから生まれてくるものなのだろうか。

他人様に迷惑をかけないように

まず感染防止に対する考え方や取り組み姿勢が違う。ステイホーム、マスク着用、3密の回避など、我が国で行われた主な感染防止策は、他国のように法令で強制されたものではなく、政府のガイドラインに基づく個々人の自主的な行動規制により成り立っている。

そして日本人がここまで頑なにそのルールにこだわるのは、自分が感染するのを避けるという自己防衛の目的もあるが、それが主たる理由ではない。万一自分が感染していたとしても他人を感染させないようにする。他人に感染させなくても濃厚接触者に認定されるのを防ぐ。

自分の行いが他人様に迷惑をかけてはいけないという日本人特有の倫理観が国民の総意となり、それが極めて強固な自主規制に結びついたと考えるのが正しいように思われる。

「ノーマスクは悪」という妄信

このように国民が感染対策のため一丸となって不自由を甘んじて受け入れる中、スタッフの制止を無視してノーマスクで旅客機に搭乗する乗客や自粛要請に従わず夜の街で飲み歩く若者など自主規制に従わない人達のことを、特に感染拡大初期の頃、週刊誌やテレビのワイドショーが徹底的にたたいた。

自主規制に従わず他人様に迷惑をかけるような振る舞いは集団秩序を乱す許しがたい悪行である。「ノーマスクは悪である」「悪は懲らしめるべし」というレッテルが日本人の中に今もなお不動の価値観として染みついているようだ。

総理大臣が屋外でマスクは必要ないと宣言しても国民はそれに従わない。おそらく外国人には到底理解できない現象が起こっている。ほとんど人と出会うことがない田舎道であっても、ひとり乗用車を運転する時であっても、他人に見られることを恐れてマスクをつける。もはや理屈は関係なく、とにかく老若男女を問わず他人に素顔を見られるのは悪いことだというイスラム教よりも厳しい戒律が我が国に定着しつつある。

行き過ぎた感染対策がもたらす負の効果

現在の主流のウイルス変異株(オミクロン株)は初期の武漢型株に比べあきらかに毒性が低い。3年前ならいざ知らず、今となっては行き過ぎた感染対策を長続きさせることによる負の効果にもしっかりと目を向けなければならない。

過剰なコロナ感染対策による社会への悪影響として、まず経済への影響が取り沙汰されるが、それ以外に予想される大きな負の効果は人類の健康に対する悪影響である。

例えば、この3年の間、これまでにない厳格な感染症予防に努めてきた結果、コロナウイルスだけでなく、インフルエンザなど様々な病原体による感染を防いできた。良いことのように思われるが必ずしもそうではない。

人類は長い歴史の中で感染症とうまく付き合ってきた。特に人に感染するウイルスは基本的に人にしか感染しないので、お互い持ちつ持たれつ、毎年一定割合の感染者をだすかわりに集団免疫を獲得しつつ微妙なバランスの上に共存してきた。そのバランスがこの3年間で大きく崩れてしまった。特に幼児、若年層など、成長の過程である程度感染すべき感染症に全く感染しておらず免疫をもっていない世代がどんどん蓄積されている。

現在の感染対策を続ける限りこのように特定の感染症に免疫を持たない層の人口がどんどん膨れ上がり何らかの理由で爆発的な感染拡大につながる恐れを否定できない。コロナ感染を防ぐことが他の感染症の脅威を増大させるという皮肉な結果につながっている。

感染対策による悪影響はヘルスケア問題だけでなく、未来を担う子供たちへの影響も大きな懸念事項である。

中高年層の人々にとってコロナ禍の3年間は、長いといえば長いが、人生の中の一時期の出来事として片付けることもできる。しかし学校教育を受けている若年層にとってこの期間のもつ重みは全く違う。

ちょうど思春期にあたる多感な年頃であり人格を形成する上で重要な時期をマスクと黙食とステイホームにより他人との交流を希薄にして過ごすことになる。ちょうどZ世代の次の世代にあたる彼ら彼女らはこれからどのような大人に育っていくのだろうか? コロナ禍の生活で受けた特異な経験が人格形成にどのような影響を与えるだろう? 残念ながらあまりポジティブな影響は想像できない。

新時代の価値形成に向けて

マスク着用の是非にみられるように、日本人の多くは善悪を基準にして自分の行動を決めることが多い。勧善懲悪を基本原理として行動する。

何が善で、何が悪か? その判断の基準は論理的に定められるものではなく、個人が帰属する集団に共通した価値観によって導かれる。それゆえその集団が持つ思想、信条、宗教の違いによって善悪の判断が逆転することすらある。

我が国における善悪の基準は昔からその時代の世論によって決められてきた。民衆の小さな動きが発端となって、マスメディアがそれを増幅し、最終的に善悪の規範となる強固な世論が形成される。過去にはマスメディアの行き過ぎた扇動により民衆を誤った方向に導くような価値形成もあった。その強大なムーブメントを前にしていつの時代も政治は無力であった。

今回のコロナ禍においても、その初期からマスメディアは日本の感染対策に大きな影響を与えてきた。前述のように「ノーマスクは悪」は明らかにマスメディアによって作られた価値観である。

確かにこの価値観が正しい時期も過去にはあったかもしれない。このおかげで日本国内の感染を他国より圧倒的に低く抑えられた可能性もある。しかし環境が変わり時代が変われば善悪の基準も変化する。日本国民の生命と財産を守るためにも妄信的な感染対策の呪縛から解き放つ新たな価値形成が必要である。

特にコロナ禍で不利益を被っている若い世代のために。コロナ禍の時代を乗り越えた未来は日本の若者にとって希望にあふれた世界であって欲しい。

満田 勝
中部大学先端研究センター特任教授。博士(薬学)。大手化学会社の研究所長を経て2022年より現職。